開店休業

がんばっていきまっしょい。

桜の美について

……皆様は桜を見て美しいと感じますか?
桜、美しいですね。
お花見、いいですね。

でも桜を見て美しいと感じるのはどうしてなのでしょうか。
桜そのもののフォルムとしての美しさ、これはもちろんありますね。
あの鮮やかな色。
桜吹雪。
見た目として美しい。
ううむ、エクセレント。

ですが、おそらく美の本質はそこではないと思います。
それよりも「咲き誇っている側から散っていく」という無常観、感傷こそが僕達の胸を打つのではないかと思います。
形状よりも現象としての美しさ。

日本の木と言えば「桜」。
日本人は古来より自然と一体となり生活してきました。
「あはれ」の精神は変わらず僕らの魂に宿り、無常観は僕らの根幹となっていると思います。

外国の方は桜を見て「美しい」と言う時、それは主に「外見上の」美しさを感じ言っている事が多いのではないでしょうか。
(もちろんその限りではありませんよ。フランスは日本と感性が似ているみたいですし)
けれども僕達日本人は、その美の裏側を読み取ります。
つまり「喪失」という感傷を抱き、淡い儚さを抱きます。

桜は散るから美しい。
極論を言えば散らなければ美しくない。
「命短し恋せよ乙女」

舞い散る桜は、僕達に「死」や「喪失」を想起させ、遠大な時の円環を感じさせます。
「盛者必衰の理をあらわす」

これが僕の考える「桜を美しいと感じる心」のメカニズムです。


……それではここからは、僕が個人的に桜の美について抱いている感覚を述べさせて頂こうと思います。
突然ですが、僕は桜の美しさを真正面から見据える事ができません。
それは「桜の美しさは、狂気をはらんでいる」と感じてしまうからです。

桜って、ちょっと怖くないですか?
ぼくは怖いのですよ。
夜の学校よりも、夜の桜並木を一人歩く方が怖いかもしれません。
お花見をしている人たちを見ると、「怖いからこそこうやって酒のつまみにして怖さを紛らわせているんじゃなかろうか」というような印象を持ってしまったりします。
それがお花見の始まりだったのかも、とか。
桜から得体の知れない力を感じます。

「桜の木の下には屍体が埋まっている!」
梶井基次郎が言っていた事です。
坂口安吾桜の森の満開の下」でも桜は決して美の象徴ではありませんでした。
桜を禍々しいものとしても描かれていたように思えます。

桜は生命力が強すぎる。
僕が夜の桜並木を怖いと思うのも、その生命燦々とした空間に圧迫されてしまうからかもしれません。

バランスが取れないんです、僕の中で。
美しすぎて、生命力が強すぎて、儚すぎて、「ちょっと落ち着いてよ」と言いたくなってしまいます。
爆笑問題太田光の奥さんは「桜の美しさにあてられた」事があるらしいです。
満開の桜の中にいたら気分が悪くなってしまったと。
とてもわかります、これ。
美しいものには棘がある。
どうにも桜は美しすぎるきらいがあります。

世界中の各地には遙か昔の「母性」を感じさせる像や絵が残されています。
母親とは僕達にとってやはり重要な存在であり、古来よりモチーフにされてきました。
まあ、母性には深く突っ込みませんが、その母親、たた単に「やさしい」だけの母ではない事が多いです。
土偶や、絵、仏像なんかがわかりやすいのかもしれませんが、「やさしさ」と「怒り」を感じさせるものが多いのです。
顔が二つ付いていて、表は菩薩のように微笑んでいて、裏は鬼神の如く般若顔、という像を見たことがある人も多いでしょう。
母性は「安らぎ」と「恐怖」の両面を持つものであり、それは表裏一体なもの。
つまり、母のややもすると「子を飲み込んでしまう」という側面が表出されているのだと思います。

僕は桜にこれに近いものを感じます。
飲み込まれるという感覚。
やさしく美しく、儚いその光景に、包括感を抱く。
美しい。
けれども同時にその「咲き誇りつつ散る」という美に「死神」を見てしまう。
僕までその「死の美」に引き寄せられ、心をぎゅっとわしづかみにされたようになります。

散り際の美学、という言葉は言い得て妙であって、散り際にこそ生命は躍動するのだという考え方です。
散り際が大事で、潔く、己を貫く。

なんというか桜から見る精神とはそのまま日本人の精神史のようにも思えてきます。
武士道の切腹、特攻隊の悲劇にも通じる日本人の価値概念は「桜」からきているように思えます。
その美しさは、ひどく鋭く、触れると傷つけられそうな程にバランスを欠いているのだと感じられます。
桜は一瞬だけ咲き誇り、生命を謳い、散る。

まとめます。
前半説明した美しさとは、桜に「喪失」という儚さを読み取るものでした。
ですが後半で説明した事を加味すると、「その喪失感とは見る人に漠然とした死の予兆も抱かせる」という両面を持っている、となります。
なんというか、未来を見てないんです。
自暴自棄的な美しさ、かもしれません。
こう言ってはなんですが、僕にとっては押しつけがましいのです。
皆様は桜が散るのを見て、来年の桜を想像しますか?
僕はしないのです。
落ち葉だったら、緑茂る樹木をぼんやりと思い浮かるのですけれど。

同じ散り際の無常観だったら、秋の枯れ葉の方が僕は感じます。
徐々に、徐々に衰退していって、最後に「ぽつん」と散っていく。
こちらの方が「ああ、無常」と僕はなります。
生命はこうやって、消えていくのだ、と納得できます。
そこに素直に死を見れます。

桜は、「俺の散り際を見てくれ~!どうだ~!」と決死の美しさとなりますでしょうか。
僕が桜並木を一人歩くのが怖いのも、「幽霊を感じさせるほどに」生命に溢れすぎているからかもしれません。

というか、例えば夜桜の桜吹雪の情景を見たとして、そんな美しいものが何の犠牲も払わずに存在しているという事がなんとなく信じられないのかもしれません。
何か代償が欲しい。
全ての生きとし生けるものは栄枯盛衰、ゆるやかな落差を経験するというのに桜は輝いたまま衰退を見せる事なく、自らの命を散らせる。
嫉妬心もあるのかな。

だから納得しようとして
そうか、あの木の下には屍体が埋まっているんだ!
と思ったり。
こんな感じなのかな、梶井基次郎も。

よくアニメや漫画なんかでも「非業の死を遂げてしまった人が埋められている地面から、この世のものとは思えない程に美しい満開の花を付ける木が育つ」という描写がなされたりします。(今、具体的に作品名を上げられませんが、表現が近しいもの含め、屍体から植物が育つってよく見る描写じゃないですか?)
無念の思いやその亡くなった人の生命力が美しい花を咲かせる。
そんな描写。

この描写はおそらくその作者の中に自然と植え付けられ感覚がもたらしたものでしょう。
僕ら日本人は無意識に「桜の木の下には屍体が埋まっている!」という感覚に広く共感してきたはずです。
でなければこんなにもこの作品は有名にならなかったはずですし、漫画家もこんな表現を使ったりはしないはすです。

桜について、おしまいです。
皆様はどう思いますか?桜について。
拙い記事ですが、まぁ、こんな風に見てる奴もいるのか、位に思って頂ければ幸いです。
少なくとも新たな視点を提示する事ができたという事ですからね。