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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

考察、マブラヴの構造。

半年前にプレイしたので細部まで整合性が取れているか自信がないですが、書いてみますみれセプテンバーラヴ。
いやはやマブラヴにはしてやられました。感動したっての、もう。
うーん、でも僕は具体的にどうして感動したのかな? かな? 
うん、考えてみよう。わからないから書いてみるがこのブログのモットーじゃけん。

詰まるところ僕は悲劇に弱いのだなぁと再確認。マブラヴはなかなかに悲劇要素が詰まった作品であった。
まずその構造を読み解いてみようと思う。

はじめに結論を言ってしまうと、ゲームという特性を生かした物語構造をしており、武の物語以上にプレーヤーの物語である、と。
それはどういう事か? メタフィクション要素満載という事なんだけれども、説明しまふ。

まずEX編。
普通の美少女ゲーム的日常から物語は始まる。
そこでは僕達は主人公の武に移入し、日常を満喫する。いわゆるプレーヤーの分身が武となる。
これが第一の世界。

その後、物語はアンリミテッドへと移る。
そこで、武は突然その世界に放り込まれた異邦人として設定される。
僕達と武の距離は更に縮まり、一体感を得る。
元々がプレーヤーとはすべからく物語に対して異邦人である。
僕達と武は共に少しづつその世界を知っていく事になるし、またその武の苦悩を僕達は共に味わうことにもなる。
つまり、何も知らない武とプレーヤーは同等。
武とのシンクロ率がぐっと上がる。
これが第二の世界。

そして物語はオルタナティブへ。
そこでは武は強くてニューゲーム。
実は一番その世界に詳しい人物として設定される。
武は何が起こるか知っている。それを食い止められるのは武だけ。
これはゲーム内の物語をゲームオーバーになったプレーヤーがやり直している時の視点。
RPG等で全滅した後やり直しているときの感覚を思い出してみて欲しい。この時の武と酷似していると思う。
未来を変えられるかはプレーヤーの選択次第。
武は物語内存在でありながら、プレーヤーの視点を持っている。
ここにきてプレーヤーと武の存在が大きく重なってくる。
これが第三の世界。

武の死はリセット可能なもの。他のキャラは一回限りの生であるのに武だけは不死身。
これはやっぱり私達プレーヤーのメタファー。
武は物語内存在だが、死ぬと物語の外に弾かれて再び物語を始めさせられる事になる。
物語内存在であり、物語外存在であるという両義性を抱えている。
つまりアンリミ編の説明で言ったように武はこの終末世界に対して異邦人であり、しかしながら異邦人であるがゆえに世界を救える。
物語にすべからく異邦人であるプレーヤーが世界を救うという、ゲーム一般の構造と同じ。
これがメタフィクション性を孕んでいると冒頭に言った理由。


ではメタフィクション性を孕んでいるという事が物語にどう作用しているのか?
別に僕はプレイしている最中にメタフィクションうんぬんなど考えてない。
事後的に考えてるだけ。でも思うにこのメタフィクション性が感動を呼ぶ大きな仕掛けになっているのではないかな?かな?
以下検証。

このメタ構造は主人公とプレーヤーの距離を大幅に縮める。
主人公とプレーヤーの得る情報量が同等になるから。
主人公の考えや疑問がプレーヤーが感じているものと同じようなものになる。

そこでEXからアンリミでぐっと近づいた距離の中、しかしプレーヤーはもどかしい気持ちになる。
武があの終末世界で活躍できないのは納得できるが、鬱憤がたまるぜ。
これが跳躍の為に膝を折り曲げた、「溜め」の状態。
そしてオルタナティブ
武、初っぱなから大活躍。うほほ。
溜めが「解放」される。
ヒキは抜群。武の苦労を共に共有してきたプレーヤーは武の活躍に溜飲を下げる。
おらおら、世界を救っちゃうよ?
しかし武、調子に乗りすぎて落ち込む。
冷たいユウコ先生と霞。
帰宅の途に着く武。
プレーヤーもガツンとショックを受ける。
武の苦しみが理解できる。
というよりもプレーヤーしかできない。
ユウコ先生も記憶が読める霞でも、EX編やエクストラ世界の事を完璧にわかっているわけではない。
本当に理解できるのは共に全てを見てきたプレーヤーだけ。
よって同情するにしても、武の行動に憤慨するにしても、プレーヤーは大きく心を揺さぶられる。
完璧に武と同一化している。
この落ち込みも「溜め」の状態。

その為、その後の武の決意を素直に祝福する事になる。
がんばれ、武。
そして武、がんばる。溜め、「解放」。
プレーヤー、大興奮。気持ち良い。
何故、気持ちよいか?
これが大切。

それは『承認』されたから。
プレーヤーがずっと見てきた武がやっと本当に貢献できて、その力を認められた。
そこには快感がある。佐渡島ハイブでの武の活躍ぶりに身震いした人も多いのではないか? (余談。これは武が元々ロボット対戦もののユーザーだったというのもうまい。僕達はゲーマーが多いので否応なく親近感を覚える)

承認されたと言う事は存在が認められたという事。
つまり、物語内存在として受け入れられたという事。

事実、
武がまりもや純夏の死に面してなお、この物語を一回だけのもの、大切な物が失われても世界を前に進ませるという決断をしてから後、
「一回だけの生を生きる決心をしてから」武が急激に周囲に認められていく構造になっている。
それは武が物語内存在として加速し始めたと言うこと。
「立脚点がない」と武は言っていたが、あちらの世界で「影響を受けた世界を元に戻す」という立脚点を見つけてきた武は、オルタ世界で本当の意味での一人前になったのだ。
それはやっと本当の武の物語がスタートする事を意味している。

今までの武の弱さは運命に翻弄されて右往左往している、つまり自分の意志で生きているのではないからだった。
突然アンリミ世界に放り込まれて、なんとなく状況が状況だしがんばってるだけだった。

それをメタフィクションとして考えてみると、武はそれまでプレーヤーに操られるだけの存在だった(運命は決められたものだった)
しかし、自分の立脚点を見つけた瞬間から、プレーヤーの手を離れた。(事実、その後プレーヤーが「選べる」選択肢がほぼ皆無)

つまり、物語外(異邦人・元の世界からやってきた自分)としての自己を捨て、物語内(オルタ世界)としての自分として生き始めたと言うこと。

これはいうまでもなく、物語外(異邦人、ゲームをプレイしているプレーヤー)ともいえる。
武が物語内存在として生き始めたので、プレーヤーは武に干渉できなくなる。その為、選択肢がなくなり、ただ見守るという行為しかできなくなる。
つまり、武は物語の外部存在としての自分を消し去った。
普通のキャラクターとして、運命に立ち向かっていくことになる。
ここからのプレーヤーは親心の心境といえるかもしれない。

その為に我が子、武が承認されると嬉しい。
なにせプレーヤーが育てたのだから(まあ正確には見守ってきただけど。つか元々ヒーロー物は自分の承認欲求が満たされる事が魅力なんだけどね)

つまり「承認」されたいというただ一点にこそプレーヤーの欲望は集約する。
武が誉められて欲しい、認められて欲しいという一点に。

そして物語の最後、仲間達の犠牲の上にオリジナルハイブを殲滅し、武の世界に帰還する時であるが、
ここで皆から承認されて終わるのが普通の物語である。
いわゆる英雄譚であるが、しかしマブラヴの特徴としてはその後に元の世界に帰らなければならないところ。
そして『武が帰った後、その存在を覚えている人は一人もいない』ということである。
更に帰還した武は『自分ですら』覚えてないのだ!
これはどういうことか。
それは詰まるところ、武が異世界で世界を救ったという事実をプレーヤーしか知らないということだ。
プレーヤーだけがあの世界での思い出を持っている。
ここで武とプレーヤーはとうとう別離する事になる。
何も知らない武。知っているプレーヤー。
シンクロがとかれる。

つまり、この時僕達はプレーヤー(物語外部)としての自分の優位性を確認する事になる。
その前まで、武がヘコんで逃げ帰るまで、そしてその後、武が自らの意志で生き始めてからも一貫してプレーヤーは武と共にいた。
プレーヤーとしての力を失っても見守っていた。
けれど、ここに来て完璧に乖離する。
初めて武の知っている以上の情報を持つ事になる。

そして、プレーヤーは寂寥の念に駆られる。

あんな楽しく、辛く、長かった物語がなかった事にされてしまった!
誰でもいいから武を誉めてくれ! 武はがんばったんだ! ていうか武、自分で思いだせや、ゴラァ!
しかし武は思い出さず、純夏の再構成した世界での日常が始まる。リスタート。
ああ、どないなっとんねん……。
このまま全ては儚い真夏の夜の夢
そんなの寂しすぎる……!!

そして、本当のフィナーレ、そこに登場するのが霞。

霞は唯一、その特殊能力によって異世界での武の物語を憶えている。
そして、武を見て、泣いてしまう。
武を『認識』している。

これは要するに霞が僕達と同じ立場にいるという事だ。
僕達ができない事を霞が代行してくれている。

武ではなく、このファイナルエピソード「マブラヴ」において、プレーヤーと一番シンクロしているのは霞である。
霞が僕達の分身だ。

思い出して欲しい、武がオリジナルハイブを潰し、帰還した後、まともにその偉業を讃えられた事があっただろうか?
つまり、承認された事が。
大衆には誉められた。だが仲間から誉められねばそれほど嬉しくはない。
ユウコ先生は微妙に誉めてくれたが、あれは僕達の承認欲求を満たすという類の讃えではなかった。
霞も微妙だった。
僕は武がそのまま帰還して、「なんで茜に誉められる場面がねーんだよ!?」と憤った事を憶えているが、つまりそれはこの為であった。
僕達の承認欲求は引き延ばされ、、あきらめかけたところで霞を登場させるのである。


流れをまとめよう。
まず武が僕らの分身となり、移入しながらEX、アンリミと進んでいく。
そしてオルタでその移入はMAXとなり、最後、僕達はこれまでの歩みをさも当然のように認めて貰う事を求める。
しかし認めてくれない。もやもや。茜、出てこいやぁ!
そして帰還。
なんと武まで忘れてる。
僕と武の物語じゃなくなってしまった。
ああ、もう僕しか憶えてないのね。兵どもが夢の後。本当にあの冒険は存在したのか? それは不明瞭になる。
そこで霞登場。
「ありがちょう……」憶えてて泣く霞。
きょとんとする武。
でもプレーヤーは知っている。その涙までの経緯を。壮大な冒険の結果としての涙を。
僕達は自分の分身としての武が憶えててもらえたのが嬉しい。まるで自分が承認されたように。
この時、僕達は武ではなく霞にシンクロしている。
霞はプレーヤーの分身になる。

しかし誉められているのはこれまた分身(だった)武である。
しかし武は冒険を覚えていなく、物語内存在として生きている。
冒険を覚えている霞は物語外存在としても存在している。
霞はプレーヤーのメタファー。
つまりこの場面、
『プレーヤーと武の邂逅の場面なのである』

これ大事です。
プレーヤー(霞ね)が、武に「あんたがんばったよ」と言ってあげている場面がここ。
霞は直接言ってないけど、涙がそれを代行している。
直接言えないけど、でも僕は君のがんばりを知っているよ。
(まあ君たち、と冥夜達を含めてもいいのかもしれない)

ここで始めに言った悲劇というキーワードが重要になる。
作家のいとうせいこうは「定められた運命とのかねあいが描かれているのが悲劇だ」と定義付けしている。
僕も同意である。
マブラヴの場合、武(達)がどうにもならない運命に忽然と立ち向かう物語として受け止められる。
そして悲劇の多くは、最後に主人公が自らの運命にあがらった後に承認を受ける。
悲劇の代表作と言われるシェイクスピアロミオとジュリエット」ではロミオとジュリエットが家柄という古い権威に立ち向かい、最後はお互いの愛に殉じて死んでしまうわけだが、
その死後に民衆は二人の愛の純真さを知り、後悔(承認)し、家の対立は収まる。
また日本で有名な「フランダースの犬」では村八分になっていたネロがしかしながら一途な生き方を貫いた事で、ネロの死後、それを村の人々が知り(承認)、後悔し、涙を流すというのがカタルシスになっている。その上、ネロの知らないところで切望していた絵の学校にも行ける事になっていたのだ。原作がわかりやすいが、アニメでもあの有名なラストの後に村人の涙が待っているのは御覧になった方ならわかるであろう。

さて、この有名な二つの作品の構造を簡単にまとめると、『運命に立ち向かった人を、死後、讃える』というものになる。
シェイクスピア悲劇なんて大概主人公死ぬしね。
ではマブラヴは?
マブラヴも構造が同じである。
運命に立ち向かった武を、その死後、つまり記憶を失った後に讃える。という構造になっている。
記憶だけでなく、オルタ世界では存在自体も人々の記憶から消えている訳なので完璧なる作品内での死。
僕達プレーヤーは死後に武を讃える上記作品の民衆であり、また村人である。
上記作品では承認するという役割を主人公の周囲の人々が担い、視聴者はそれを外から眺めるだけである。
それが普通の物語だが、マブラヴはゲームである。
その役割を担うのはこの物語を主人公と共に歩んできたプレーヤーしか存在し得ない。
霞と武の邂逅がプレーヤーが武を誉めるという構図というのはそういう意味である。
記憶を失い意味を見出せない武だからこそ、悲劇的になる。
とうよりならざる終えない。作品がそれを求める。

例えば武が記憶を失わないという設定だったらどうか?
武は再構築世界で純夏や冥夜達を大事に想うだろう。その後、霞に出会い、オルタ世界の話に興じるだろう。
それでプレーヤーは何を思うだろうか? ただ良かったね、くらいにしか思えないのではないか。
これでは作品に対してプレーヤーは役割を与えられていないのである。ゲームとして中途半端だ。
ゲームという媒体を生かす為にはプレーヤーに当事者性を与える事が必須であり、その為には役割を与えねばならない。
当事者性がないものは極端に言うとゲームではあり得ない。よって選択肢のないひぐらしの鳴くころにはゲームではない。
そういえばあのゲームもメタ構造である。プレーヤーという存在が物語を解くキーになっている。
選択肢なくしてゲーム特有の当事者性を与える為の仕掛けであろう。
やはりゲームの面白さを引き出すには物語にプレーヤーを巻き込むしかなく、ひぐらしは力業であったがその点マブラヴはスマートで巧妙であり、見事である。

しかも武が覚えているとすると、それでは作品の根幹に抵触している。
全てを覚えていたら、その後武が誰を選ぶのかという問題がフラットにならない。
せっかく純夏が再構成の際に霞や殿下を存在させ、横一列のスタートにしたのに記憶を持った武にはどうしたって純夏の存在が大きい。
それではその純夏の純粋な想いは行き場を失い、僕達に感動を呼ばない。
純夏の想いを尊重すれば、霞と僕達は武にこれまでの冒険の話をするわけにはいかない。
作品のテーマ的にも悲劇にならざる終えないのである。

ただし断っておくが「前向きな悲劇」である。
武が自らの使命を全うした結果の死であるので、さわやかな悲哀を醸し出す。

話は戻って、全てはプレーヤーの代行者としての霞の胸の中。
そしてマブラヴおわり。

要するに、プレーヤーの視点と武の視点が最後に来て乖離して終わることによって『プレーヤーの物語』というオチがつく事になる。
マブラヴは武の物語ではなく、プレーヤーの物語なのである。
ゲームという世界の外部に位置するプレーヤーのメタ的立場が生かされた構造になっている。
プレーヤーという視点だからこそ、物語全てを見渡すことができ、カタルシスを得ることが可能になる。
しかし、そこには最後に距離を取らせる事で「寂寥」という名の感動を得らせるという変速トリックがある為、途中まで武をメタフィクション的存在にして一体化させている必要があったのである。


んで。
あのおとぎ話は全て僕の胸の中。
みんなは覚えてないけど、僕の胸にちゃんと刻み込まれてる。
ばいばい、マブラヴ
これで寂しくて、マブラヴと離れたくなくて、泣いたりしちゃったり。

この最後。あれですね、千と千尋のラストで千尋が車で帰還する時にトンネルを見ますよね。
あの時の千尋の感覚に近いのではないでしょうか。
不思議な冒険が終わり、現実に帰って行く千尋。
もはや両親に冒険の事を話しても信じてはくれない。証人は自分だけ。
そしておそらくもうあのトンネルの向こうに行っても不思議の国には行く事はできない。
あれはあの時だけ行けた不思議の国。
戻ってきた日常の中では全てが夢に思える。
でも確かに私の胸にはあの思い出が刻まれている。大切な思い出が。
それでいいんだ。私だけには本当の事なんだ。 by千尋
という感じの事を思ったりなんかして。

マブラヴを終えた僕達の胸の内もこれに近いある種のセンチメンタリズムに包まれると思いまふ。


ふう、ぼくもう疲れたよパトラッシュ。
それなりに言ってること的を射ているとは思いますが、いかんせんこんがらがって途中でわけわからん具合に……。
それでかなりハッタリかましてしまいました。ごめんなさいです。
精進します。

 

 

一応参考文献。
ゲーム的リアリズムの誕生」(講談社東浩紀
「悲劇とは何か」(研究社)加藤行夫

東浩紀の影響は途中で気が付きました。うん、がんばった。