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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

保坂和志さん「プレーンソング」を読みました。

 昨日、保坂和志の「プレーンソング」を読んだ。
 ちなみにプレーンとは簡素なとか淡泊なとかいう意味で、訳すと「簡素な歌」というタイトルだ。その名の通りの小説だった。それはどういう意味か? 説明します。
 (後にプレーンソングの意味が違うとご指摘を受けました。正しくは「(グレゴリオ聖歌などの)単旋律聖歌」という意味です。失礼しました)

 この小説は大きな物語や心情の変化が無く、三十歳(前後どっちかは忘れた)の主人公を中心に、その友人達との交流が淡々と描かれた作品だ。本当に淡々と流れる。淡々と、訥々と。
 なのでカタルシスは皆無。日常の中での心の機微で見せるような「あはれ」な作品でもないと思う。
 強いて言うなれば、自らの日常を捉え直す契機を与えてくれる作品とでも言おうか。でも単なる日常賛歌ともいえないと思うし・・・・・・。うーん、うーん、ああ、閃いた。
時間と場所の中に自らの立脚点を発見する喜びを与えてくれる小説だ。どうだろう、これ…。 
 
 精神科医の斎藤環保坂和志の作品について「あらゆる精神分析的な批評を無効化する」と言っているけど、まさにその通りだと思う。批評のしようがないというか、大きなうねりのなかに作者も読者もたゆたい外からのアプローチをはじき飛ばすというか。あ、中心になって掘り起こしていく面白さって感じかな?当事者性。中から掘り起こす。周りを浮き彫りにさせていく異邦人が作者であり読者。 うーん。
 
 なんでこんなフレーズ(たゆたう)が出てきたのかっていうと、白状すれば「書きあぐねている人の為の小説入門」という保坂和志の本を前に読んだ事があるので、作者がどのようなスタンスで作品を描いているのか知っていたからだ。
 その本の中で保坂は文学定義をしていて、文学とは大きなダイナミズムの中で作者も読者も新たな発見をしていく、成長していく喜びを与えてくれるものだ(自己解釈)というような事を言っていた、気がする。

 小説を書きたい奴は哲学書を読め、哲学者が何か結論にたどり着くまでの大きな思考のうねりが小説を紡ぐ際のうねりに似ているから(自己解釈)とも言っていた。
 
 だから結末が定まっている、要するにプロットがある小説は文学ではないという極論も言っていた。そこには動きがない、うねりがない。あるかもしれないが微々たる物しかない。結末が定まっていないからこそ作者は作品に身を委ね、思考する事ができると。
 文学定義に正しい物などあるはずもなく、これは保坂個人の定義に違いないのだけれど、私はかなり納得した。 

 僕も脚本なぞを書いて、なかなかうまくできたかなと先生に講評して貰いにいった時に、「構成は良く練ったと思うけどペラペラだよ」というニュアンスの事をそれとなく臭わされた事がありまして、それはどうゆうこっちゃねんと色々と考えてきたのですが、そういう経験もありこの本を読んで納得したのです。ああ、そうか、私は基本的に自らを作品にぶつけないで今まで作品を作ってきたのだなぁと。
 
 ある友人にも、構成で心を動かされる事はないのだ、と言われた事があり、それは君の嗜好の問題だよという言葉をぐっと飲み込んだ事があったのだけれどそれはこういう事だったのだ。
 自らを成長させる為に制作しているか? 
 見てくれた人を成長させる為に制作しているか?

 この心持ちで作品に向き合っていれば、自然とその作品は(保坂の言葉を借りれば)文学性を孕み、厚みを持つ。
 前述の友人は「僕の中には作品に触れた時に明確に本物と偽物がある」と言っていたがそうすれば本物に近づけるのだ。

 ただ、保坂さんの定義を突き詰めていくと「文学に真摯に向き合えばそれが俗に言う大衆性、即物的な面白さがなくてもかまわない、結果、売れなくても。それが文学という物だ」という事になりかねない。(大塚英志がちくちく言いそう)

 まあでも多分、私の先生や友人やなんかはお客を楽しませながらも文学性を持たせる事はできるという事を言いたかったのだろう。 

 とにかくこのプレーンソングに限らず、保坂さんの作品は彼のうねりを感じられる作品です。一読の価値あり。

 

小説の自由 (中公文庫)

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カンバセイション・ピース

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