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がんばっていきまっしょい。

声優と役者の違いとは、みたいな話。あとそれに絡めた自分語り。

作品至上主義でいくのならば、声優という存在を気にかけてはいかんのである。理想を言えば、声優は生涯一作品だけの出演にしてほすぃ。

— むなし (@a674) 2014, 9月 7

 少し前にこんなことをTwitterで言っていて、補足しつつ記事にしてみようと思ったのでしてみます。

 まずこの発言には自分で「ならば顔を出して演技をする役者はどうなのか?」というツッコミをしなければなりません。声優には生涯一作品だけの出演を希望している、では役者に対してはどうなのか?
 実は僕は役者に対してはそんな願望は持っていません。それは各々のキャラに対しての『役割』が違うと思えるからです。
 この違いを述べていきます。

 最初に結論を言うならば、それはキャラへの役割が『裏』と『表』になるという一言に集約されます。つまり、声優はあくまでもキャラに声を付ける『黒子』であるのに対し、役者は自分を殺さずに出した上でキャラを憑依させる『生身の人間』であるということです。キャラへの主従関係が異なります。
 
 掘り下げてみましょう。まず声優も役者も台本がありキャラがいてその『キャラ(人物)になる』という行為自体は同じです。けれどもその性質がちがって、声優にはあくまでも『台本そのままにキャラを顕現』させることが求められるのに対し、顔を出して演技をする役者の場合は『役者にキャラを憑依させる』ことが求められます。うーん、腹話術師といたこで想像してみてください。もちろん腹話術師が声優で霊を呼び起こすいたこが役者です。

 お前はいったい何を言っているんだ、という声が聞こえてきそうなので具体例をあげますが、例えば役者の場合には、まず役者ありきの台本作りということがありえます。キャスティングありきで物語が作られる、これはアニメにはほとんどありえないことではないでしょうか?
 情熱大陸か何かで見たのですが、舞台監督の三谷幸喜がまず役者を想定して脚本を練っていました。この役者にこういうことをやらせたら面白そうだ、この役者ならキャラはこうした方がよさそうだ、ということから作品を作り上げていく手法です。別にこれは三谷幸喜だからこう、というわけではなく、考えてもみて欲しいのですが、役者の場合は『役者を観に行く』ということがおうおうにしてありえます。役者という生身の人間そのものが作品を形成する一つの要素どころか重要な売りになるわけです。そしてここが重要なのですが、役者は演技をする際に、『自分らしさ』を少なからず求められることになります。その人でなければいけない魅力、生身の人としての魅力が求められます。かつては松田優作や今では浅野忠信など、『どんな役を演じてももはやその人にしかならない』といったスターが存在するわけで、これは声優業では御法度とされることです。何故なら声優の役割は腹話術師、黒子だからです。生身の存在を感じさせてはいけません。

 声優業ではキャラに対して主従関係で従になるのに対し、役者業では主になると考えてください。だからこそまず声優をキャスティングして台本を起こすということがありえない、これは予算や売上の問題とはまた異なる根本的な性質の話です。台本、つまりキャラのイメージの再現に全力を注ぐのが声優の仕事であり、その時に生身の体は邪魔にしかなりません。それを感じさせては作品世界への没入の妨げになってしまうからです。ですが、役者ではその『役者がキャラを演じている』ことが前提となる為、そうなってもいい、そういうものなのだと私たちは了解しています。だから気にせず楽しむことができるし、その人間としての味付けこそが魅力にもなりえる。反して、声優はやはり『キャラありき』で生身の自分は殺さなければなりません、それが元々の声優の役割なのですから。

 こう言うと『声優それぞれに個性だってあるじゃないか、その声優が出ているからそのアニメを観ることだってあるぞ』という声が聞こえてきそうですが、もちろんそれはその通りで、声質だったり演技の癖だったり、ひとりひとりに個性というものは存在するでしょうし、役者と同じようにその声優が出ているからそのアニメを観るということもありえるでしょう。
 ただ、ここで考えたいのは根本的な性質はどのようなものなのか、という理念の話です。僕の主張では、その性質の差異を最大限拡大して考えると、生身の人間としての個性を味付けできるのが役者であり、声優は自分を押し殺してキャラを読み取りなりきらなければならない、となります。これは間違ってはいないと思いますが、いかがでしょうか。声質や癖が個性とはなっても、その人そのものの存在を味付けにしてはいけない、理念としては、です。

 僕は好きなアニメ作品ができるといつも裏事情を知ることを躊躇ってしまいます。その世界の裏側を知れば世界が薄まっていくのはあたりまえで、キャラを清潔に、純度百パーセントに保つ為には余計なことは知ってはならないと考えてしまいます。その最たるものが声優です。ましてや今はアイドル声優などという言葉がある時代、キャラを見て声優の顔を思い浮かべてしまうことがどれだけキャラの純度を薄めてしまうか、その恐れがいつも僕の中にはあります。
 キャラを大切にしたい、それならば声優を意識してはならない、その思いが冒頭のツイートということになります。

 ということで、【作品至上主義でいくのならば、声優という存在を気にかけてはいかんのである。理想を言えば、声優は生涯一作品だけの出演にしてほすぃ。】となるのでした。作品世界を第一に考えるならばこれが理想型だからです。もちろん、現実にはこんなことは不可能ですが…。


 最後に、少し上記に思い至るようになった僕の苦い経験をお話させていただきます。こういう経験を経て僕は述べてきたような危惧を抱くようになりました。 
 
 高校一年生の時、僕はメモリーズオフというギャルゲ-に出逢い、ちょっと頭がおかしくなるくらいにどハマリしました。あ、初代です。それでその中に桧月彩花という幼馴染みがいて、この作品はその子なしには語れないという子なのですが、そのキャラが頭に住み着いて離れなくなってしまったんです。寝ても覚めても考えてしまって、ぼんやりしてしまって、作中のことはもとより街中でふと(ああ、こんなところには彩花がいそうだな)とか探してしまったりまでして、なんというか、本当に心奪われてしまっていたんです。しあわせなことですね。そのキャラに声をあてていたのが声優の山本麻里安さんでした。
 僕は山本麻里安さんのラジオを聞き始め、CDを聴き、サイン会にまで行きました。すぐに山本麻里安さんのことも大好きになりました。その結果どうなったか、彩花は、僕からどんどん離れていってしまいました……。
 いつのまにか、僕は彩花を彩花として見ることができなくなっていたんです。彩花の後ろに山本麻里安さんを見るようになってしまった、どころかもう声が山本麻里安さんにしか聞こえなくなってしまったんです。悲劇でした。悲しかった。まさか、と思いました。大切にしたかった、宝物だったのに、その世界を自分の手で壊してしまった……もう僕は以前のように彩花に触れることができなくなってしまった、声優という存在を知ってしまったことで。

 別に「好き」、くらいの作品だったら別にいいんです。ただ、僕にとってメモオフはそんなんじゃなかった。衝撃、人生で一番だったんです、いや、ほんとに。その世界が遠ざかっていってしまったその悔しさ、トラウマですよ。見事に。
 ここに「いや、山本麻里安さんの演技がちょっとアレだったからで、訓練された声優さんなら気にならないって…」みたいな慰めを自分で自分にできはするんですが(麻里安さんに失礼)、それでもやっぱり今でも好きを越えた作品の声優さんには他の作品で会いたくないし情報を仕入れることも躊躇ってしまいます。特に、顔を見たくない。
 今で言えば僕はアイカツ!にハマっていますが、どハマリしていますが、やっぱり身勝手に「声優さんはアイカツ!だけに出演してくれ!」と願っています。他の作品で出会いたくない…アイカツ!キャラの声を他の作品で聞きたくない。アイカツ!世界の強度を、純度を保ちたい。

 どうしても声優という存在を意識するとキャラの存在が薄まっていきます。これは僕にはどうしようもないことなんです。気にされない方はされないのかもしれません。僕が神経質なだけなのかもしれません。ですが、そこに意味を見出すならば、やはり僕は作品世界至上主義ということになるのでしょう。

 でも、作品にハマればもちろん声優さんにも興味が出てきますよね…オタクですからね、僕だって……ジレンマはあるんです、いつも。できれば、追いかけたりしたいなぁ、なんて。

 ここまで言っておいてアイカツ!声優を追いかけている未来もあるかもしれませんが、それはそれ、その時は僕が何かに負けたのだと思って生温かい目で見逃してやってください。

 

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