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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

思い出のマーニー、雑感。

 熱が冷めないうちに雑感を書きます。

 正しく「子供の為の映画」でした。元はイギリスの児童文学とのことですが、さもありなん、たしかに正しく子供の成長を促す物語でした。
 僕はこの作品が大好きです。観る前から予感はありましたが、見事に寄り添ってくれる作品になりました。ありがとうございますと、一言制作陣にお伝えしたいです。
 愚にも付かない雑感であって感想にもなっていないと思いますが、少し思ったこと、感じたことを描いてみます。

 まず、正しく子供の為の映画とはどういうことかというと、この映画が描いているのは『世界に居場所がないと感じる子供が、愛を感じ、育み、愛し愛されることで居場所を得る物語』だということです。世界名作劇場よろしく、児童文学とはえてしてさみしい子供たちが愛を得る物語として機能します。だから身寄りのない設定の物が多い。(そして僕はそれが大好物です)
 
 この作品が描いたものを一言で言い表すならば、『あなたは愛されている』ということであり、それは『あなたのことが大好き』というキャッチコピーからも読み取れます。物語冒頭、主人公の杏奈の状況が『絵を描く』『喘息』『輪の内側と外側』というキーワードと共に描かれるわけですが、つまり彼女は孤独なわけです。寄る辺のなさを感じています。実際に彼女は天涯孤独でおばさんに引き取られた女の子で、その心に深い傷を負っています。

「わざと死んだんじゃないってわかってる。だけどわたしは許せない。わたしを残していって許せない」

 と家族について作中マーニーに語る杏奈ですが、彼女はまるで捨て子のように自分を語ります。自分を愛してくれる人なんてこの世にはいないんだ、まるで呪いのようにそう感じています。
 なぜ彼女は喘息なのでしょうか? 彼女は学校でも暗くあまり友達がいないようです。よく倒れてしまうようで、友達が鞄を家まで届けてくれました。彼女は喘息だから暗いのでしょうか?友達がいないのでしょうか? そうではなく、彼女の心が喘息という病気を生んでしまったのです。

 物語的には喘息と彼女の心の動きは連動しています。杏奈は日常に息苦しさを感じているからこそ実際に咳き込んでしまう病気になってしまいました。現実はともかく、物語的にはこう考えるのが自然です。
 自分は輪の中にいないと語る杏奈、輪とはみんなの輪、社会、世間のことです。自分はふつうではない、なぜふつうではないのか、それは捨て子だからです。自分は捨てられたと感じて遠慮であったりとにかく
『みんなと自分はちがうんだ。わたしはあの子たちみたいにはなれないんだ』
 と感じています。だからそんな中にいると息苦しくてどうしようもなくなって喘息という発作が起こってしまいます。だから、映画の後、マーニーと出逢った後の彼女の喘息は快方に向かうでしょうね。物語的にはそういう風に読み取れます。

(余談ですが、『俺たちに翼はない』というノベルゲームの主人公も同じように家族を亡くし孤独を抱えている存在なのですが、彼もまた輪の外にいる存在としてよく咳き込みます。そして咳き込んだ後は空想の世界にトリップしてしまいます)

 さみしさを抱えた杏奈が惹かれた存在、それがマーニーです。なぜマーニーなら大丈夫だったのでしょうか? それはマーニーが輪の外側にいる存在だからです。彼女は俗世に染まっていない、だから杏奈は警戒しなかったし、友達になれた。マーニーはお婆ちゃんだったわけですから、ここになつかしさや絆を読み取ることもできるとは思います。ですが根本的にはこういう理由だと思っています。といいますか、マーニーに惹かれたことに理由などいるでしょうか?僕が杏奈でも、間違いなくマーニーを追いかけたと思います。それが子供というものでしょう。杏奈はマーニーがどうしても気になって気になって仕方がなかったのです。それは彼女にしか見ることができないファンタジーだったからです。
 
 マーニーという少女は何者だったのでしょうか。もちろん物語的な解は出ています。杏奈のおばあちゃんでした。しかし、敷衍して考えれば、誰もがマーニーに出逢っていたと考えるのが自然だと思います。あなたの傍にもマーニーはいたのです、これがこの映画のメッセージでしょう。だからこその『あなたのことがだいすき。』です。物語的にはマーニーはマーニーという形を取っていますが、それは違う形であなたの傍にもきっといたはずですよ、と。

(なのでこの辺りには多少違和感を感じました。祖母にする必要はあったのか?と。そうすると杏奈のお話になってしまうからです。杏奈が特別でマーニーと出逢うことができたのだと読み取れてしまいます。実際のメッセージはそうではなく、『誰もがマーニーに出逢える』です。ただ、物語的にはわかりやすい決着が必要だったのかもしれませんね)

 マーニーはそこにいたのでしょうか?彼女は杏奈が作り出した存在に過ぎないのでしょうか?
 そんなことはないと思います。マーニーはたしかにそこにいました。物語としては『杏奈の空想』寄りに描かれていました。ですがもちろんそんなことはありません。間違いなく杏奈とマーニーは出逢っていて、あの時あの場所で過去と現在は繋がっていました。
 舞台は北海道の湿地帯、入り江です。まずこの入り江という舞台を考えると、彼岸というべきか、あの舟で漕いで行ったり来たりするというのは、『あの世とこの世、そして現在と過去を往来する』という象徴的な意味合いが読み取れます。一日のうち一時だけ、月の力がもたらす潮の満ち引きと連動して時空が繋がる場所、それがあの入り江でした。だからマーニーはその時間にしか表れることができないし、入り江の傍から離れることができません。
(何度も言いますがこれは杏奈にだけ起きることではありません。あの入り江は杏奈の場所かもしれませんが、こういう場所は誰もが持っていたものとして描かれるべきものなはずです)

 このあたり村上春樹がよく使う手法で、彼の作品ではよく現実と非現実が繋がるのですが、それは井戸の底であったり水辺の向こうであったり霧の向こうであったりします。その先で死人に出逢ったり、何か摩訶不思議な世界に繋がっていたりというリアリティを好んで用います。この『虚実の境』として入り江は機能しています。あれは、あのお屋敷は幻であるけれども限りなく現実なのです。夢ともうつつともつかない空間、それが現出されます。

 どうしてそんなことになったのでしょうか?物語的にはマーニーが杏奈を心配していたから、と読み取ることができます。祖母として、マーニーはどうにかして杏奈を救ってあげたかった。だからその願いが、愛があの空間を作り上げた。それが自然な読み取り方となるでしょうか。
 ただ、このあたり正直なところ好きなように受け取っていいと思っています。ここに意味を見出す作品ではないからです。この作品のリアリティは、読み取って腑に落とすものではなく、感じて腑に落ちるものです。作品に入り込めればこのあたりの理由付けが気になることなどないと思います。僕はまるで気になりませんし、それでも十分に納得しています。何か不思議なことが起きて、マーニーと出逢って、杏奈は救われたんだ、この説明だけで僕には十分です。前述した村上春樹作品だって同じ様なことで、そこに確固とした理由などないし、求められるものでもないのです。こういったリアリズムの前では理由はさほど意味を持ちません。感じ取るか、取れないか、それが全てではないでしょうか。(もちろん感じ取れずとも楽しめるとは思います)
 
 ただ一点言うなれば、僕としてはやっぱりマーニーも過去に杏奈と出逢っていた、あのマーニーの日記の中には杏奈の記載もあるべきだった、そうは考えています。どうも原作では実際に日記の中に杏奈の関する記述があったようです。(要確認)それはそうで、だってマーニーだって子供のとき、杏奈と同じ様に『さみしくて、世界に居場所がないと感じていた少女』なのですから、マーニーだってイマジナリーフレンドを必要としていたはずなのです。だから、杏奈にとってのマーニーがそうであるように、マーニーとっての杏奈もそうであったと読み取るのが自然だと思います。時空を越えて出逢った二人だったと、そう読み取れます。 

 イマジナリーフレンドとは言いましたが、何度も言いますが僕は『実際にそこにいた』というスタンスを取っています。ただ、こういった『空想の友達』系譜のお話自体はさほど珍しくはなく、かなり古典的であるともいえます。
 例えば少女小説のクラシック【赤毛のアン】では、アンは幼少時にさみしさを紛らわす為に鏡に映る自分にケティ・モーリスという名前を付けて架空の友達をして自分を慰めていました。あるいは僕の好きな漫画【魔方陣グルグル】という作品では、ヒロインの魔法使いの女の子がこれまたさみしい自分を慰める為に魔法でともだちを作り上げてしまう(召喚してしまう?)といったものもありました。たしか。ここでいう架空の友達とは、架空ではあるもののぼくらを見守ってくれる守護霊みたいなもので、妖精みたいなもので、ぼくらを庇護してくれる存在としての役割を担っています。アンだってそういう存在を求めていました。

(前述した『俺たちに翼はない』というノベルゲーでも、ヒロインの一人である明日香という少女が昔空想の弟を持っていたという設定がありました。とかく孤独を抱えたこどもたちはイマジナリーフレンドを持ちやすい。それは発達の一つの段階であるといえると思います)

 この作品、間口はおそらく狭いです。というのも、一般論で言えば、冒頭で杏奈に共感できなければその後の流れに乗るのは難しいからです。(これは娯楽作品としてという意味です。文芸的に見る目を持てば好き嫌いはあるにしても優れたお話だと感じてもらえる、のではないでしょうか…)
 僕はもちろん掴みはオッケーな感じだったのでその後は流れに乗るだけで、とても大切なお話になりました。杏奈の屈折した心も、悩みも、とても共感することができました。

(そしてこの作品の一番の困難はジブリという看板にあります。ジブリ宮崎駿なわけで、この作品はそういう期待の元に観ると肩すかしを食らってしまいます。そして不当に評価を低く見積もられてしまいます。しかし宮崎駿宮崎駿であって、米林監督は米林監督です。もしかしたら多くの人はディズニーのようにジブリを捉えているのかもしれませんが、ジブリとディズニーは別物です。ディズニー映画では監督の匂いを感じることはほぼないはずですが、ジブリは良く悪くも監督ありきのものづくりです。会社として映画をコントロールしているわけではありません。一人の作家性を尊重したものづくりの極北がジブリです。ジブリ=駿のイメージの元で観られてしまう困難、これはとてつもないものであるはずです。そんな中でこんなに丁寧に、自分を見失わずにできることをできる範囲でやってきた米林監督に、僕は賛辞を惜しみません。)


 閑話休題、この映画、情熱大陸鈴木敏夫さんが「女性に向けた映画」と言っていました。その言葉通り、おそらく男性受けは芳しくないでしょう。永遠の友情を誓う、というのはとても少女的であり、やはり赤毛のアンでもそういうシーンがありました。ましてや杏奈はヒーローになりたいわけでも刺激的な日々を求めているわけでもありません。彼女はただふつうに、みんなと同じ様になりたいと願っていただけです。だから少年の冒険心からすると少し退屈に映るかもしれませんね。かぐや姫の物語を楽しめた人は楽しめるでしょうか。

 僕は杏奈に共感できた、と前述しましたが、僕がいいなと思ったのは、この作品では杏奈の視線で見ることも大人の視線で見ることもできることです。つまり複眼的に映画を観ることができるんです。子である杏奈、親である叔母、どちらの心情も痛いほどわかります。加えて出てくる人物みんなちゃんと生活していると感じることができました。なのである程度年を経た方が心に痛みを感じられるかもしれません。(赤毛のアンも大人の女性の方が楽しめるお話です、実は)
 人が、生きているんですね。あの世界にはモブはいません。そう感じられました。こう言ってはなんですが永遠の少年である宮崎駿にはこれは描き得ない世界です。彼の描く作品ではモブがモブになってしまいます。主人公達は同じステージにいないんですね、周囲と。ふつうに生きる人々を描く第一人者は高畑勲ですが、米林監督もどちらかというと勲寄りの、ヒューマンドラマ寄りの監督のようです。そういえばかぐや姫もふつうになりたいと願っていましたっけ。


 誰にとっても永遠の友達、忘れてしまったかもしれないけどあなたに寄り添ってくれていた存在、それがマーニーです。マーニーは杏奈にとっての永遠の存在ですが、あなたにもそういう人、存在はいたはずです。そしてこどもたちに、そういった『あなたは護られている、一人じゃないんだよ』と伝えてあげているのがこの作品です。こどもたちはもしかしたら退屈と感じたかもしれません。よくわからなかったかもしれません。ですがふと大人になったときに思いだしてくれたら、そのときこそ「自分だけのマーニー」の存在に気がつけるのではないでしょうか。

 正しく、とても正しく子どもたちに向けた映画でした。そして大人にも忘れてしまったマーニーを思い出させてくれる映画でした。

「あなたのことが大好き」
「わたしもあなたのことが好き!」

 一人じゃなかった。自分は一人ではない。もしかしたらそうは感じられないかもしれない。でも必ず、あなたの傍にもマーニーはいたんだよ。
 ああ、いい、いいわこれ……。 

 この世界に居場所がない、ひとりぼっちだ、そう感じている人にはぜひ観てもらいたいです。
 きっと長いあいだ寄り添ってくれるお話になります。そして子どもたちもきっとこれを観たことが財産になる、そんなすばらしい映画でした。

 

 

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)