開店休業

がんばっていきまっしょい。

流行の文章タイトルについて

 長文タイトルが流行っている、主にオタ界隈で。
 いわゆる文章タイトルというやつだ。「俺の妹がこんなにかわいいはずがない」とか「僕は友達が少ない」とか「俺と彼女と幼なじみが修羅場過ぎる」とかなんとか、「信じて送り出したフタナリ彼女が農家の叔父さんの変態調教にドハマリしてアヘ顔ピースビデオレターを送ってくるなんて」というエロゲもある。
 どうして流行ってるのかなぁ、などとふと思ったのだが、ようするに汎用性が高いからなのかな、と思った。つまり、ネタにしやすい。僕もよくネタにする。SNSで見かけない日はない。共有してもらえやすいのだ。
 一般論としては「内容を見ずに内容がわかる親切設計」となるのだろうし、勿論その理由も大きいのだろうが、それと共に仲間意識をつつくものであると思う。要は、『俺らならこの感覚わかるよね?』という同調だ。

 鏑矢がなんだったのか知らないが、僕の感覚では「俺の妹が~」で意識し始めたようなところはあるのだが、俺の妹が~を例にとって話をすると、この「俺の妹がこんなにかわいいはずがない!」というタイトルは、パロディである。なぜなら多くのオタ作品で描かれる妹は、そりゃあもうめちゃくちゃかわいいからである。この『~ない』という打ち消しは汎用性が高いし、このタイトルはネタにしやすいという一面に置いてはこれ以上ないくらいの完成度を誇っている。
 この作品では妹がオタであり、主人公はオタではない。現実の目線がそこには存在する。この妹が~というタイトルは、「そんなこと現実にはないよね」という同調を誘うが、しかしラノベである原作で描かれるのはまさに「俺の妹めっちゃかわいい」であって、ダブルスタンダードである。(このかわいいが兄弟愛等含む複合的な意味合いであろうと)

 文章タイトルとは、基本的にダブルスタンダードで皮肉的にも聞こえる。特に主人公の一人称的台詞を採用している作品では、これは昨今のアニメ・漫画的主人公の「一歩引いた」視線、その現代性を表わしていると言えるだろう。つまり、熱血系でこのタイトルは似合わない、と感じられる。熱血系の流行廃りにも関係があるだろう。
 やれやれ、と嘆いている感があるではないか。

 「俺の妹がこんなにかわいいはずがない」は妹やっぱりかわいいし、「僕は友達が少ない」もたぶん友達いっぱいいるのだろうし(観てないから知らない)、「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」も色々あるが結果としてラブコメを描いているんだし、「俺と彼女と幼なじみが修羅場過ぎる」はじゃあ修羅場にならないようにしろよ、と思っちゃうし、これつまりだいたいにおいて主人公の目線が冷めている。

 「信じて送り出したフタナリ彼女が農家の叔父さんの変態調教にドハマリしてアヘ顔ピースビデオレターを送ってくるなんて」というのも冷めているし嘆いている。ここで言う冷めているを、距離があると捉えて頂いても構わない。だから、メタ的とも言えるのである。
 ふつうエロゲ陵辱NTRモノなら信じて送り出したところで普通に帰ってくるわけはないのでさもありなんといったところなのだが、そういう前提を嘆くことで「あるあるネタ」として機能しているというわけだ。エロゲ陵辱として考えると普通のことを、嘆き、それをエロゲ陵辱のタイトルに据える。これはやはりラノベと同じくパロディである。

 パロディとは基本的にお笑いを共有することで成り立つ。前提を知っているから笑えるのである。
 オタ界隈の作品は、根本的にお約束やルールがデータベース化している。つまり、制作者と受け手は限りなく同じ世界観を内包しているといってよい。だからこういうタイトルが流行りだした。


ラノベを前提として考えるが、まずラノベが消費される創作という観点から考えて、『中身を見ずともすぐわかる』タイトルが有効と考えられている実際がある。本屋で目に付くか、手に取ってもらえるかが勝負だからだ。
 それと共に、

1:現代の少年(少女)の、一歩引いた視線の現れである。
2:パロディとすることで仲間意識に訴えかける

 という事情と効能があるのではないか、と僕は考える。
 このダブルスタンダードが流行るのは、送り手と受け手が同じ世界を、前提を共有しているからこその現象である。
 そして流行りだした一番の理由は、21世紀は夢の世界ではなく日常こそが求められる時代だからなのかもしれない。