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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

ファウスト系ってなんだろう、みたいな話。

 一時期注目を集めたファウスト系とは、アニメ漫画で育った僕らの自意識を反映した、アニメ的世界を用いて現実を抉り出す文学としての運動だったのでしょう。
 ファウスト系とは純粋なラノベではなく、あくまでもアニメ的世界と現実のひずみ、狭間に生じた表現媒体であり、そこには「新時代を生きる子供たちの自意識」を読み取る向きが確実にありました。その意味でファウスト系を編集サイドは「新世紀の文学」として売り出そうとしていたし、「物語単体ではなくその背後、作者までをも商品とする」向きがありました。
 あの「アニメ・漫画的視線」を持って現実を捉えてしまう、捉えざるおえないという「僕ら」の世界が、ラノベ読者以外の耳目も惹く、いや惹かせてみせるという、そのような意向がありました。

 それが成功したか失敗したか、佐藤友哉の成功をもって一応の成果を挙げたと言ってもよいのかもしれませんが、実際のところ読者数はさほど多くはありません。というよりもむしろ純ラノベと比べるまでもない、というのが実情でしょう。
 純ラノベファウスト系小説は、あまり読者層が被らない。
 この理由を見ていきます。

 基本的にファウスト系はいわゆる90年代後半からの思春期ムーブメントの成果であると考えられます。
 一時期世間を騒がせた「キレる中高生」や、とかく世間には「子供が何を考えているのかわからない」といった風潮が流れ始めました。日本全体のバブル崩壊から始まる閉塞感、そして震災にサリン、日本の未来はどうなるのか、危機感だけが募ってゆきました。以前のように密ではなくなった家族間の関係も後押しし、大人は子供を見失い、子供が未知として「得体の知れない存在」として立ち上がるようになりました。
 子供は怪物と見なされるようになりました。 

 現在二十代後半の世代の方なら同意していただけることと思いますが、僕らが小学校高学年、中学生の頃、やたらと僕らの世代が世間を賑わせました。そしてそれはもっぱら凶行によってです。しかもその多くはどこか「得体の知れなさ」を伴っていました。大人には理由がわからない、さっぱりわからない。けれど、あの当時の僕らには何故かそれが理解できた、共有できた。あれらは社会が生み出した犯罪であり、「僕と彼の間にはなんの違いもないのだ、僕がああなっていてもおかしくはないのだ」と、心のどこかで理解していた。

 その凶行の多くは空虚でした。子供達は苦しみ、葛藤し、自分を見失い、抑制が利かず凶行に走ったにも関わらず、しかし、多くの場合そこに確固とした理由がなく、あったとしても大人側からしたら「え、そんな理由で…」と唖然としてしまうものでしかありませんでした。
 ただただ、底知れぬ闇のような空白がぽっかりと空いているだけでした。
 いったい子供達に何が起きているのか?
 社会は怪物を生み出そうとしているのか?
 その社会問題、そしてエヴァを筆頭にそんな世界を生きる僕らの自意識が噴出しようとしていた矢先に、オタ系ムーブメントの中にファウスト系が見いだされ、売り出されました。
 あれはそう、僕らの自意識を以て売り出された作品群なのです。(同じような意味ではセカイ系も孕まれるのかもしれません。社会との軋轢の中で思春期の自意識が生み出す視線といった意味で)

 現在この流れを組むのはその仕掛け人であるところの太田さん率いる星海社、そして彼が足跡を残した講談社BOX、あとはガガガの一部でしょうか。寡聞にして知らないだけで、他にもあるのかもしれません。
 この辺りのレーベルがラノベとは一線を画し、形態や料金面で差別化を図っているのは、「私たちが売り出しているのはライトノベルではない」という主張の現れです。
 これらの作品群は、冒頭に述べたように「現代を映し出す鏡」であり、従来のラノベと同じくアニメ的世界観が用いられてはいるけれども、そこで描かれることは「作者の現実との関わり合い方、その視線」であって、純粋なラノベではない、といった意図が汲み取れます。
 現実が描かれる、それは文学と呼ぶべき代物であり、ファウスト系とはその軋轢が肝となった表現形態です。
 この辺り、おそらく大塚英志さんや東浩紀さんの思想に触れると、実感しやすいかと思います。理解できているとは言い難く適当な物言いになってしまうかもしれませんが、一部の論者はこれらの作品群から現実感覚の推移を読み取っています。

 子供は大人になりますが、しかしその過程には思春期と呼ばれる「狭間」の期間があり、基本的にファウスト系はこの思春期の自意識を共感を持って飲み込みます。ファウスト系の主な読者はこの層になります。つまり、現実を生きにくいと感じている読者。
 それは「子供の視線を以てこれから出て行かざるおえない大きな壁としての社会」が描き出されるからです。社会という底知れぬ闇、この深淵と対峙した時の僕らの心の動きを捉える作品群がファウスト系です。
 それはやはり、僕らにとっての自意識小説であると言えると思います。

 ということは、主なラノベ読者層とは被らないわけです。現実をきちんと生きられている、社会に適合できている人たちからすれば対岸の話であり、そのような「アニメ的世界が好きできちんとしたフィクションが読みたい読者」が求めている、満足が売りな話ではないからです。

 ファウスト系は葛藤の話であり、つまるところ現実を生きるしかない僕たちの話です。なので、「アニメ的世界が好きで社会との距離の取り方がわからないといった葛藤を抱えた読者」が主な読み手となります。繰り返しますが、ファウスト系とはアニメ的世界を用いて僕らの現実を描き出すお話なのですから。
 この二つには棲み分けがあり、読者層は被りません。そういう実感があります。

ファウスト系と呼称してはいますが、どこからどこまでという明確な線引きなどあってないようなものですので、いわゆる「アニメ的世界観であるのに僕らの自意識に働きかけてくる物語」をイメージしていただけるとよいと思います。その一番の武器は「共感」です。
 僕の考えで言えば、田中ロミオ滝本竜彦、瀬戸口なんとかさんもファウスト系に連なります。もちろんロミオはエンタメの天才でもあるわけですが、エンタメだから自意識に訴えかけないということもないわけで、その本質は「上手く生きられない外れ者の葛藤」を描くことにあるのだと考えます)

 既におわかりのように、通常ライトノベルとは純粋なるフィクションであり、その作者までをも含めて面白がるような作品ではありません。作者まで楽しむ作品は詰まるところ文学であり、文学はライトな作品ではありえないのですから。
 ライトノベルとは手軽に読まれることを志向します。消費されることを志向します。業界自らライトと呼称するように、それをモットーとしています。つまり、「気持ちよくさせるものでなければならない」というコンセンサスがあります。エンタメである。
 しかし正確には、「アニメ・漫画好きな中高生に向けたエンタメ」です。(多少の成人男性も含まれるでしょうが)なので、表現に多様性は消え去り、画一化し、単一化していきます。彼らが求めるタイプなど、そう多くはないからです。これはラノベ業界に限らずですが、現在オタクコンテンツに多様性は無きに等しく、表面的なすり替えにとどまり、一見奇抜な表現を多用する風潮の裏には、しかしただライトに消費されるだけの結果に留まるといった実情もあります。これでなくてはいけないのだ、といった意識はあまりなくお遊びとして用いているだけです。(もちろん本質を突いたものも中にはあります)

 例えばラノベという文化を知らない人が本屋でラノベブースに行けば、どれもこれも同じに見えてしまうことでしょう。表現は均一化し、単一化し、お話までも似通って、それでも出版社はそういう作品をどんどん売り出していきます。需要があるからです。よくラブコメが売れると言いますが、一般小説に比べてラノベマーケットでは売れる作品の種類が決まりきっており、どんどんどんどん隘路に入り込んでいこうとしています。
 しかし、それこそがラノベの本質であるともいえます。ラノベは全てをフラットに、記号化することで本領を発揮します。
 作者は読者と共犯になる。
 これがラノベの特徴です。僕らは同じ世界を共有した仲間でなければなりません。

 そもそもラノベは「作者」と「読者」が同じ世界観を共有していなければ成立しえない作品です。アニメ・漫画的リアリズムを以て描かれるのがラノベであり、ならばその空気感を体感として知っている必要があります。その世界から外れた異質は、読者を動揺させ、困惑させ、結果として売れなくなります。
 ラノベには多くのお約束があり、またキャラもパターン化し、逸脱を許さない傾向にあります。それは読者の負担を軽減する為に存在します。
 一つ例を挙げるならば、これまでアニメや漫画に触れてこれなかった人にはラノベをうまく描くことはできないでしょう。読者が求めている世界を、体感として知らないからです。必ずズレが生じてしまいます。
 涼宮ハルヒの作者がラノベという形態を知らなかった、といった話は知ってはいますが、それでも最初からああやって描けるのですから、多少なりとも漫画などには触れてきたことは疑い得ませんし、ハルヒは新世紀の代表作と謳われていますが、それはあの現実感覚が僕らの孕む現実感覚を反映していると考えられているからです。ただ人気があるからではなく、あの作品のリアリティは、この現代を生きる少年少女のリアリティであると、批評的には言えるでしょう。ならば、ハルヒファウスト系なのか。
 前述のセカイ系うんぬんと絡めるならば、ハルヒセカイ系でしょう。僕らの現実感覚を反映した視線が作り出した物語といった意味ではファウスト系といってもよいのかもしれませんし、思春期の自意識だと言ってもそうなのですが、「作者の我」といったところでは味が薄いのかなと感じます。僕が言うファウスト系とは、あくまでも叫びでなければなりません。作者が自分を抑えきれていない、そう感じさせる作品のことです。ヒリヒリする、ピリピリするもの。
 多分に感覚的なものでうまく説明できませんから、ここは「お前がそう言うならまあそう思ってやるよ」と納得して頂くしかありません…。(汗)
 話がズレてしまいましたが、違う角度が言えば、ハルヒの作者がラノベを知らなかったからこそ、あのキョンというアニメ的世界から距離を取って俯瞰した視線を提供する主人公が生み出されたのかもしれませんね。ハルヒは現実の視線で持ってアニメ的リアリティ・フィクションを捉えようとした作品だと思いますから。

 ラノベは「アニメ漫画の歴史」に、そのリアリティの多くを依っている、特異な表現形式なのだということを忘れてはいけません。一般小説のように、誰でも読者になれる表現形態ではないのです。

 ファウスト系と通常のラノベの読者層が被らないことはわかりました。そして、ファウスト系がラノベよりも売れないこともわかりました。
 しかし、ラノベだってパイは小さい。

 よくラノベは売れると言いますが、全体として見ればそんなものはほんの一握りでしょう。見てきたように元々のターゲットが限定的なのですから、そりゃこんだけ出版されればドカンといくのもあるだろう、てなもんです。
 全体的な規模としては、漫画とは比較になりません。そして漫画にはラノベと違い、表現の多様性があります。
 ここにラノベでの表現の画一化の理由も求められます。つまり、作者生命的にも売れる作品を描くしかないといった事情です。ラノベは消費を志向するものであるので、消費されなければ淘汰されるしかありません。淘汰されたくなければ売れる作品描くしかないわけで、自分の作家性を殺してもそうせざるおえないといったことはおうおうにしてありえるでしょう。
 漫画は出版不況ということもあり売れなくなってきてはいるようですが、それでもまだ多様性が担保されうるくらいには読者が存在します。それは実際に男女どの層に向けても雑誌が発刊されていることからも伺えます。ラノベには「ビジネス」や「麻雀」等といったニッチ向けの土壌は熟成されていません。そもそも漫画は「アニメ好きの中高生」だけをターゲットとして見据えなくともいいのです。これはとても大きいです。
 限りなく冒険のしづらい市場、それがラノベマーケットと言えます。

 もうひとつ決定的な理由があって、それはライトノベルがライトであると自称してしまっていることとも関係があるのですが、漫画は消費されるものであるという向きと同時に「芸術」であるといった了解も孕んだ表現です。だからこそ、作家性を大事にする風潮が存在します。
 もちろん色々な事情によるでしょうが、「読者には受け入れ難いかもしれない、でも表現として優れているから世に出したい」。表現としての価値を認めて、売れる売れないに関わらず出版するといった志は未だ存在するのではないでしょうか。この不況でなくなりつつあるのかもしれませんが、例えば僕が小学生のころ、担任が教室にスラムダンクを常備していたことなどからも、やはり漫画はその歴史から「芸術」としての価値を認められてきました。だからこそ多様性が孕まれます。大塚英志さんの著作なんかを読んでもそう思います。漫画は老若男女に向けて描かれ得ます。

 ラノベでこれはおそらくほぼないでしょう。ラノベは歴史が浅く、それならば漫画のようにこれからに期待といった考え方もできますが、既にラノベバブルは弾けた感がありますし、既に飽和状態で、だからこそ売れる作品だけが求められるようになっているわけです。正直な話、見通しは暗い。なんのデータもありませんが、実感としてはそうです。
 表現の幅はとても狭い。
 もう一つ言えば、これはラノベが自らを「ファストフード的表現」と自認していることとも関連しますが、だからこそ芸術と捉えられづらいといった事情もあります。(個人的にはエロゲ市場の方がまだ作家性が保たれている気がします。いつかの日活ロマンポルノのように、ビジュアルノベルという素材を使って好きなように作品を作るといった志溢れる作品に出会うことが多々あります)
 ただ、一部のレーベルは志を持ってものづくりに当たっているな、と感じられて、それがつまり「売れる売れないではない」といったファウスト系と被ります。
 ファウスト系はラノベ市場の中で細々と展開され、正直あまり売れていないでしょうが、しかし編集サイドのある種の使命感に支えられて市場に送り出されています。

 僕はラノベで面白い物語に出会ったとしても「面白いけど漫画やアニメで見たかった」と感じてしまいます。僕とってはそれが小説である意味が感じられない、そもそもがアニメ的であり、しかも作者を楽しむタイプの作品でもないのだから、手軽に読めるのはいいけれど、それならもっと手軽に絵で見たいと考えてしまう良くない読者です。
 僕にとって読書とは娯楽でありえないので、何か得る物が欲しいと考えてしまうのですが、ラノベで気持ちよくなるなら同じ物語を用いた絵で気持ちよくなりたいと思ってしまいます。そっちのが手軽だからです。よく「小説は自分で想像するから面白い」と言いますが、それならラノベに絵なんていらないわけで、むしろラノベは盛り上がるシーンに、見たいシーンにこそ絵を付けるわけで矛盾があるわけで、その言説はラノベに当てはまめるわけにはいかないでしょう。
 こう言った意見からもわかる通り、根本的に僕は読者としてもラノベへの資質に欠けるところがあるようです。