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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

Twitterについて

 ついったで発言するってよくわからないというか、きちんと考えると「はて、俺はいったいなんでこんな所でこんなことを言ってるんだ?」といった感覚に陥ります。
 人それぞれ目的や求めているものがあるわけで、もちろん僕にだってあるはずなんです。でも僕はついった初めて四年以上経ちますが、未だに前述のようにバランスを失することが多い。発言も書いては消してを繰り返しています。これじゃあ疲れちゃいますし、「ここらでひとつきちんと考えてみっかー!」と意気込んだ結果が以下となります。つまりどういう身の処し方が自分にとって心地がよいのかと。
 参考にして頂ければ幸いです。


 まず大前提を明らかにしておきましょう。僕がついったを始め、そして継続している理由は「オタ友といちゃいちゃしたい」からです。これが理由の最上位に来ます。
 しかし同時に「ついったをやってる自分格好悪い」と思っています。僕の理想とする自分はついったになんか興味を惹かれない人間です。
 つまり、この相反するふたつの真理がせめぎあい僕はバランスを失います。


 基本僕は寂しがり屋のかまってちゃんですし、ついったには生来的に惹かれるものがあると思います。ですが同時に「SNSで自己顕示ってあんまり格好良くないよなぁ」とも考えるわけです。できるならばそんなことはしたくない。
 上述に絡めて更に言いますと、僕は創作をしているわけですが、ついったで失われるモノはとても大きいと考えていて、僕の敬愛する作家はえてしてついったになんか染まらないだろうという確信があります。僕の作家理想像は「一人でいられる作家」です。孤独に耐えられる作家です。いや、孤独を受け止めようと考える作家です。であるならばSNSなんぞやってはいかんと。
 特についったはハマルと集中力が削がれるわけで、中毒症状のような感じになりますし、かの村上春樹氏はこう言っています。
「その都度エッセイなどにして内にあるモノを吐き出してしまうと、自分の中で物語として熟成されるべきものまで吐き出してしまう気がしてあまり書きたくない」
 ひとりで悶々とする環境の中から生み出される莫大なエネルギーというものがあるはずなんです。この一人でいられる時間というものが現代では限りなく存在しえなくなってきています。
 ついったは即物的にこのさみしさをまぎらわすことができてしまいます。さみしいという感情を紛らわせてよいものなのか? やはりさみしさは受け止めるべきものではないのか?
 まあ創作を軸に据えて考えるとマイナス要素が大きいなぁと。


 まず第一に、このように「ついったをやりたい自分とやりたくない自分」がせめぎあっていることをお知り置き下さい。


 で、次ですが、ついったでの発言はかなり特殊で「前提をすっ飛ばす」言い方になることが多いと思います。理由というよりかは、「自分はこう考える!」という強固としたメッセージの方が届きやすいです。ふぁぼってもらえます。
 思考法の違い、というものがあります。僕のブログ読者様なら頷いて頂けることと思いますが、僕はやたらと話が長い。前置きが長くなかなか結論を出さない。僕は「結論を保留することで考えを深める」という思考法を取ります。なので、ついったで発言をしづらい。何故ならその前提をすっ飛ばして結論を書いても「本当に自分はこう考えているのか?この発言に責任が取れるのか?」と悩んでしまうからです。これで多くのPOSTを葬り去ってきました。

 しかも僕は妙にプライドが高いので、そんな中途半端なPOSTで僕の発言をわかった気になられたくないんです。そのPOSTだけで「こいつバカだなぁ」と判じられたくないんです。このブログは別で、こうやって長文書いてきちっと読んで頂いた上でそう断じられることにはさほど抵抗はないですし、自身の未熟さは身に染みているので素直に受け止められますが、ついったでの「しっかり結論を出せているわけではないPOST」から僕を見られるのは嫌なんです。

 特についったでは「言い切る」人の方が人気を博します。パッ見わかりやすいですからね。「僕だって人気者になりたい!」ですが、そのような資質はないようです。
 かの村上春樹氏はこう言っています。
「僕は文章を書かないと考えられないから、何かを考えるときは文章を書くようにしている」
 僕もおそらく同じ属性なのでしょう。書かなければ考えられない。
 ということで思考法の違いというものが困難としてあります。

 第二に、「思考法の違い、言い切ることができない」という問題が見えてきました。



 しかし、です。僕は冒頭に「オタ友といちゃいちゃしたいからついったをしている」と書きました。それであるならば別に意見を表明などせずにただのほほんとしていればよいのです。別に無理して考えを吐き出さなくてもよいではないか。
 ここについったの難しさがありますね。「自分を認識してもらわないと仲良くできない」。難しいですね。

 「誰それと仲良くしたい!」と願っても、自分のコンテンツ力がそれに見合っていないと相手にされないことが往々にしてあります。更に無為なPOSTを垂れ流し続けていたら「リムーブ」されることだってありますね。僕は基本的にともだちの輪を広げたいのでリムられたくありません。なので、自分のコンテンツ力に敏感にならざるおえません。
 別に今の僕にコンテンツ力があるなどとは思いませんが、少なくとも仲良くしている人たちにリムられないくらいの存在にはなりたいです。「こいつどうでもいいや」とか思われたくないです。仲良くしたいです。
 なので頑張って話に付いていこうとしたり、気を惹こうとして思考を見せようと試みたりするんですが、既に述べたようになかなかうまくいきません。

 なぜうまくいかないのでしょう。先ほど僕は自分の思考法について述べました。ですがもうひとつ理由があります。おわかりですね?僕は「リムられなくない!」と書きました。
 つまり「誰の気分も害さないような物言いになってしまう」ということなんです。全方位に向けて気遣ってしまう。これじゃあ自分のコンテンツ力も上がりませんね。埋もれてしまうからですね。

 もっと言えばやはり「自分の発言に責任が持てない」から傷つけることを恐れてしまうともいえると思います。僕は自分が「こう考えるんだ!」と確信を持てたならしっかり意思表明してもいいと思っています。それでぶつかり合って不仲になってもよいと考えています。ですがやはりそこまでに持って行くにはとても気合いを入れて考えなければならず、であるならば小手先の発言でぶつかりあいたくなどないわけです。

 僕は割り切れないのでしょう。人気者の方々はある意味過剰ですね。純粋なネタクラスタはともかく、発言が過剰=その人が過剰なんですからね。配慮はあまりないですね。というか、確固とした自分を持っているのでブレがないのでしょうね。自分はこう考えるしこうなのだ、と割り切れている。「自分」を武器にズバズバ切り込んでいく。僕にはできないことです。(これからそうなりたいかも?)

 第三に「ついったの特性=自分がコンテンツになる」という真理が露わになりました。



 まとめます。
 ここで考えたいのは【僕にとって座りの良い身の処し方です】。
 で、僕は前提として「ついったで友だちといちゃいちゃしたり、新しい友だち作りたい」と願っています。ですがその為には自身のコンテンツ力に敏感にならざる終えず、「僕の思考法」がそれを阻害し、かつ前提の願いのように「SNSの中ですらしがらみに囚われている」から発言に気を遣ってしまいます。
 そしてなにより「ついったやりたくないなぁ」と考えている自分がいます。なんかわけがわかりませんが、本当のことです。

 改めて考えてみるとただのアホですね。まあだから要するに割り切りができていないのでしょう。これは僕の悪いクセで、判断を保留してしまうんですね、いつも。「決断」が大の苦手なのです。

 結局自分がどう運用していくかですから決断するしかないわけで、今更ついったやめられそうにもないですし、それなら続ける前提で身の処し方を考えるのがよいでしょう。


 ★ハマらず適度にTLを覗く。決してハマってはならない!(もう遅いぞしかし)
 思考法が向かないのは仕方がないが、縁が切れることを恐れて発言を控えるのは決してよいこととは言えない。強固な自分を持つことも「楽しく生きる」為には必要ではないか。作家としても自分の色を持つことは大事だ。範囲の問題だ。自分の大切とする範囲をきちっと決めていこう。譲れない範囲。あまりないことだが言いたくなったら都度言っていこうではないか。リムられたらそれこそ縁がなかったのだと諦めればよい。周囲を気にせず邁進するという意味ではない。周囲を無視するという意味ではない。そうではなく、配慮の上に「人は人、自分は自分」という価値観をより硬く構築しよう。
 人生楽しくいきていこうと決めたのだし、あんまり配慮し続けるのも疲れてきたから、自分を受け入れてくれる人達と仲良くできればそれでいいかなぁ、なんて。←こっちに舵を取る。


 といった感じですかね。これができれば座りもよくなるかな?