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がんばっていきまっしょい。

たぶん初音ミクさんについて。

 Mikusan Maji Tenshi

 久しく記事を書いていないので、リハビリもかねてミクさんについて書いてみようと思います。つらつら綴りますので、あっちこっちいくかもしれません。あしからず、ご了承下さい。(※なんとか纏めようと頑張ってみましたが、きびしかったです)

 ----アイドルという職業が存在する。アイドルは夢を与える。ミクさんはアイドルである。しかし、ただのアイドルではない。愛玩アイドル、なのである。

 現代のアイドルはもはや「アイドル」と言うのも憚られるくらいに形骸化している。なんというか、そこいらにいる普通の女の子で歌唱力もないしダンスも下手、これでオリコン一位とか日本どうなってるんだよ、というのはAKB48絡みのヤフー記事なんかでよく見かけるコメントである。握手券付きのCD等々、歌と踊り以外を武器にしているから本物ではないのだと。

 確かにその感想にも共感できる部分はある。例えばひと昔前のモーニング娘。ではさすがに握手券付きのCDは発売されなかった。しかし、この数年の間にアイドルの形も変遷したのだとは言えるだろう。そもそもAKBのキャッチコピーは「会いにいけるアイドル」だったはずだ。言うなれば、そこいらにいそうな・いる少女だからいいのかもしれない。あなたの傍にいそうな少女、それがコンセプトだ。
 なら別に歌やダンスが下手でもいいじゃないか、プロフェッショナルじゃないからいいんじゃないか、というのは僕の個人的な意見だがここでは捨て置く。いや、こんなことを書いておいて僕はAKBのことをほとんど何も知らないのだが、(知るとハマッてしまいそうで怖いということもある)コンセプト自体は何かの特番で見たので間違いない。

 そう、AKBの特徴とは、「自分が応援し、育てるアイドル」というところにある。ファンはただのファンではない。自分で女の子を選び取り、応援し、アイドルとして育てあげるのだ。限りなく一蓮托生の存在、彼女は明確に「あなたのサポートを必要としている」。もはやファンは一方的に夢を与えられる存在ではない。一緒に夢を育てる相方となっている。
 例を挙げるならば、AKBには一軍二軍入れ替えや、人気投票があるらしい。他にも握手会ともなれば、それぞれの女の子がどれだけの行列を得るかは人気のバロメーターと成り得るだろう。ファンはあの子に会いに行かなければ、僕が会いに行かなければあの子が(行列を得られず)さみしい思いをしてしまう、と少なからず感じる。この密着感は旧来のアイドル像とはかけ離れている。旧来のアイドル、僕は80年代のことはほとんどわからないが、おそらく遠くから眺める存在であったとは思っている。

 AKBは紛れもなく「僕が作り上げるアイドル」である。自分の応援が彼女の地位を押し上げる。応援してあげなければならない、僕が支えてあげなければならない。だからこそその購買意欲は凄まじいものとなる。ファンは彼女から夢を貰いつつ自分の夢を与えているともいえる。

 「夢はひとり見るものじゃない(by國府田マリ子)」、これがAKBのエポックメイキングな点だった。それまでアイドルの魅力とは「神秘性」に依っていた。アイドルが私生活を垣間見せることがダブーとなっていたことは周知の通りだが、それは私生活が彼女の神秘性を奪い、人間にしてしまうからだ。極論を言えば、アイドルは人であってはならなかった。「普通の女の子に戻ります」と言い残しステージを後にしたキャンディーズよろしく、それは一種の天使だったのであり、その処女性も大事であった。
 【ファンに妄想の余地を残すことでアイドルは成立する】。これはこの記事のキーポイントになるかもしれない。

 しかし時代は変わった。今の時代、妄想の余地はその幅を狭めつつある。この世から神秘は消えつつある。神秘はカリスマを作りあげるのだ。わからないから知りたい、妄想が爆発する。これは誰かに熱狂したことのある人ならばら同意してくれるものと思う。
 芸能人の日常はブログやついったーで知ることができるし、日常レベルでも友人の状況は逐一SNSで確認できる。「繋がり」、もはや私たちに繋がれない相手はいない。いや、繋がれると錯覚し求めてしまう。

 似ているシステムを採用しているゲームがある。そう、アイドルマスターである。今ではモバイルで自らのアイドルをトップアイドルに育てあげるべく全国のプロデューサー(リアルの人です)相手に奮闘しているプロデューサーで巷は溢れている。(一部特定界隈)ここでもいわゆる課金制度で身銭を切るひと続出である。まあ、AKBは「AKIHABARA」の略なのだからユーザー層が被っているのは否めない。古くはたまごっちからその兆候はあったのだろうか。

 インタラクティブ性、というものが現代性なのだろう。相互作用、与えつつ与えられる。皆が繋がれる時代を生きていて、多くの人が繋がりを求めている。ヒットする商品にも「誰かと繋がることのできる」ものが多いように見受けられる。SNSの広がりとアイドル像の遷移の同調性は見過ごせない。今の時代はもう「ステージの上の高嶺の花を遠くから眺めるタイプ」のアイドルは時代遅れとなってしまった。モー娘。からその前兆はあったし、広末涼子もそうだったのかもしれないが、アイドルだってひとりの女の子なのだ。アイドルだってトイレに行くのである。

 突然だが、アイドルという職業は「夢を与える」存在である。既に述べたが夢を纏う為には清廉潔白でなければならない。ビッチに夢を見る人は稀だろう。だからやたらとスキャンダルが取りざたされるのだが、それは置いておくにしても、彼・彼女達は愛だ恋だ平和だと歌う。しかし考えてみればそれそのものは彼女達の自発的なメッセージではない。その多く、いやほとんどは裏方のプロデューサーが彼女達に「伝えるように」と命じたメッセージだ。
 アイドルは操り人形の如く、プロデュースされることで動く。だからこそ「大人たち」の気配がつきまとう。

 それはつんくであり秋元康だが、彼らは彼女達に愛を歌わせるが、決して自分たちでは歌わない。つんくに限って言えば歌っていたかも知れないが、その効力は比することのできるものではなかっただろう。ここで言う愛とは、「一般論としての愛」である。個人的なものではなく、普遍的なもの。普遍的なものとは、誰もに当て嵌まるようなもの、と言えるかもしれない。(「世界にひとつだけの花」などは万人に向けたメッセージだろう。「ラブマシーン」でもいいが)
 アイドルは基本的に社会の共同幻想である。求められているものを与える為に存在する。それ以外の「自分」はほぼ持たない。がらんどうでなければならない。作曲や作詞は任せなければならない。中にはそのアイドル特有のキャラクターに根ざした歌もあるにはあるだろう。しかしそれは特色化に過ぎず、ステージ上の彼らは結局「美しい操り人形」であると僕らは了解しているし、だからこそその歌を誰もが取り込める。人形は人形であるが故に誰もが妄想に浸れ、夢を見られるのだ。
(わかりやすく言えば、「自分を強く押し出したメッセージ」は、自分と同調してくれるファンには強く届くが、それ以外にはあまり届かず、範囲を狭めてしまうということ。普遍性を歌えば、それは普遍であるゆえに誰もに届く。アイドルは普遍を歌う)

 さて、上記はいわゆる「一般的な」アイドル像である。一昔前の、と付け加えなければならないが。彼女達は愛だ恋だと歌うが、それは誰もに代替可能な歌詞である。誰もがそのメッセージを主体的に受け取れる。それは共有を指向するものだ。
 
 比してミクさんはどうか。ミクさんは愛を歌わない。一般論としての愛を歌わない。むしろ恋を歌う。とても個人的な恋を。言いかえればミクは「愛してる」よりも「好きだよ」と告げる。
 ミクはアイドルであるし見方によっては「これ以上ないくらいのがらんの器」なのだが(設定しかない故に全てを包含する)、反面「これ以上ないくらいにキャラクター」という裏表ラバーズな特異性を持つ。

 個人的な感触になってしまうが、ミクさんの歌はとても「私的」である。等身大の恋や友情や決意なんやらを歌う。統計を取ったわけではないが、僕の浅いボカロ知識では例えば「世界に一つだけの花」のようなメッセージ色の強いものは見かけたことがない。(あっても人気が出ず埋もれているのかもしれない)
 それはミクが味付けされることにより成り立つアイドルだからだ。味付けが肝であり、その空虚を僕らが満たすことによって成り立つ。ここに旧来のアイドルとの相違がある。
 ミクは「ボカロ存在としての自分」や「自分を作りあげてくれたあなたへの愛や感謝」を歌ったり時には野菜ジュースの宣伝までと物語を背負わされるが、反面、旧来のアイドルが「アイドルとしての自分やプロデューサーへの感謝」を歌うことはまずない。「万人に」届ける歌にはならないからだ。
 (何度も言うが、これはおそらく旧世代のアイドルでは、ということになる。昨今のAKBなどは届く人に届けばよいというスタンスに見える ←ちょうてきとう。聴いたことない)

 ミクという存在は、オタクである僕ら全員がプロデューサーとなりプロデュースしている、これは誰もが感じていることだと思う。ミクさんは僕らが遊んでいるうちにぽっこり産まれた共同幻想だ。
 ミクはオタ風味に味付けされることで生きる。この前提は大事だ。ミクはごく僅かの初期設定しか持たない。16歳の少女、ほぼコレのみである。追加条項は自由自在だ。時にはこの設定すら無視してもよい。
 旧来のアイドルは「ファンに妄想してもらう」ことで存在し得た。その隙間はファンによって埋められる。ミクさんもその点では同じである。しかし、ミクさんはその隙間を埋めてもらうことに特化したアイドルだ。「実際に妄想で遊ぶことのできるアイドル」、それは「僕だけのアイドル」と同義だ。同時並列的に存在する「僕だけのアイドル・初音ミク」、その集合体がミクという現象であり、オタクの果てしない妄想を内包した天使である。

 少し詳しく述べたい。一般的なアイドルが世間に向けた存在であるならば、ミクはその世間をオタにフォーカスしたアイドルである。であるならば、オタ界隈が反映される。オタを写し出す鏡だ。ミクさんを見ているとき、それは僕達を見ているに等しい。当たり前である。誰かが歌を作り、絵を付け、ダンスの振り付けを施し、時には文章を綴り、評価することで「ミクという名の御輿」を共に作り上げ、担ぎ上げるのだから。
 (ミクがネギ好き設定は勝手に付与されたものだが、誰もがそれを受け入れている。むしろそれを受け入れられなければミクファンにはなれないだろう。この空気感は非オタでは共有し辛い)

 そもそもオタは自給自足を得意としている。それを僕らは時に「萌え豚」と自ら揶揄して笑い飛ばすが、そのようなメンタリティを持っている。僕らは萌えを提供するのが僕らであり消費するのもまた僕らであると知っている。
 同人誌然り、閉ざされたコミュニティ内で誰もが送り手となり受け手となる循環性はオタ界隈の孕む空気感だが、これがミクの前提条件となった。こう言うとあまり聞こえはよくないが、ミクが好き、は僕らが好き、というニュアンスと近い。それを産みだしたのは誰が何と言おうと僕らであり、また育むのも僕らなのだから。まあ娘ということにしておこうか。
 前述のような特異なオタのコミュニティ性はコラボレーションを可能とする。それぞれのクリエイターが「自分の持ち味を活かして」ものづくりに参加する。これはとても新しいムーブメントだろう。皆が一丸となって神輿をつくりあげることができるのである。コラボレーション。そこでは作品は伝播し、派生していく。作品はひとつの形をとるのではなく、色々な形をとりうる。ここでミクは僕らを繋ぐ絆、のようなものになる。

 更に幸運な?ことにその「お御輿制作工房」にうってつけの場が存在していた。ニコニコ動画である。ミクはニコニコ動画の産物だ。そう言い切ってしまえるほどに貢献した。いや、現在進行形でしている。
 ニコニコ動画はただ動画を閲覧する場ではなく、むしろ動画を介し雑談する場として機能する。視聴中の動画にはコメントが流れ、そのレスポンスを随時参照できる。ランキングや再生数も見過ごせない。いわゆるここが工房となり、ミクさんを作り上げる場として機能したことは言うまでもないことだろう。皆が皆の思うミクさんを作り上げ、それを楽しめる。
 こう言ってはなんだが、ニコニコもオタク色の強い場だ。オタというコミュニティ内で「こんなん作っちゃったんですけどw」をするにはうってつけの場だった。ニコニコも時代が求めたコミュニケーションの形である。そこから生まれたミクさん、さもありなんといったところか。

 オタは遊ぶ。遊ぶのだ。往々にして遊びの中から新しいものは産まれる。
 考えてもみて欲しい。一体オタク以外のどこの誰が「無償で皆を喜ばせる為に手間暇掛けて」作品を作ったりするだろうか。そこにはほぼなんの得もないにもかかわらず。それはとてもピュアな情動だ。僕らの絆というべきか、友情とも呼ぶべき奇異な空気感に支えられている。いや、そもそもオタは「愛する物」を共有してもらいたいという精神に満ちあふれた存在だったか。自己承認欲求を上回る熱量に裾野は支えられている。
 ミクの歌は時には有料配信されることもあるかもしれないが、ほぼ全て無償で提供されていると言ってよい。これは愛のなせる技だ。その閉じたコミュニティでの「内輪に向けた愛」であり、こんなことはほぼ奇跡に近い、ような気がする。日本のアニメ・漫画・ゲーム文化の集体なのは間違いない。日本の、オタクの空気感が如実に反映されている。

 ミクは器である。ただの器だ。オタクに向けて「これで遊んでいいよ」と差し出された器に過ぎない。少なくとも意図されずそのように機能した。旧来のアイドルはその後ろにプロデューサーというおとなが存在した。そしてそれは社会に向けられた普遍性のメッセージを孕んだ。
 しかし、ミクにおとなは介在せず「オタ全体」が産みの親でプロデューサーだ。だからメッセージはごく限られた内輪に向けたものになる。
 よく「ミクさんはこのままでは一般にまで広がることはない、どうにかした方がよい」という意見を聞くが、むべなるかなそのような存在なのだから仕方がないのではないかとも考える。世界中のオタには広がるだろうが、一般層にまで広がるには何かブレイクスルーが必要だろう。ボカロの進化型が広がることはあるかもしれないが、ミクさんアイドルとしてをそのままということならば、それこそ「オタと公言しても恥ずかしくない世界」を作り上げなければならない。
 ミクさんの本質を掴み受け入れ熱狂するには受け入れるべき文脈が多すぎる。その新しさが耳目を惹き付けることはあっても、本当の意味でミクさんを受容できるのはオタだけだろう。ミクさんはオタクが作り上げた御輿であり、それは僕ら色に染め上げられているのだから。
 
 ここまで読んで下さった方に申し訳ないので結論めいたことを書き残すならば、アイドルの形はAKBよろしく「自分が育てるアイドル」へと変遷しつつある。それは社会の流れとリンクしており、もはや「眺めるだけの存在」は違和感のあるものになってしまった。ケータイ小説やSNS等、誰もが自分の特別性を感じる、「神秘」の薄れた世界となってきている。
 ミクはアイドルである。しかし、「僕だけのアイドル」の総体としての「オタみんなのアイドル」である。僕が育てるアイドルは皆のアイドルという文脈に回収される。
 ミクさんは「僕だけのアイドル」としてどんなジャンルでも歌い、どんな卑猥な歌詞でも口にし、様々なキャラに変身する。少ないパイでも受け皿になってくれる。しかしそれが亀裂を産むような「別個」のものであるかといえばそうでもない。例えばその無数の「僕だけのアイドル」を集めたライブが催されたりとそこに違和感はなく、妙な結束に包まれている。ここからわかるのは無数のクラスタの集合が「ミクという現象」であり、ファンは気兼ねなく「僕だけのアイドル」を作成し、蒐集すればよい。

 「ヴァーチャルアイドル・初音ミク」。妄想たくましいオタがその神秘性を埋めるように遊んでいる対象がミクで、眺めるだけの旧来のアイドル存在からは対称に位置する。アイドルの私生活を妄想するファンの如く、僕らはミクに物語を付与する。
 
 オタ総出で「アイドル育成ゲーム」をしているに等しい。ミクさんを作り上げているぼくら、という誇りもそこにはあるかもしれない。連帯感やら言えばオタとしての矜持らしきものと結び付いていてこれを受け入れられない人も多いが、とにかくこれが天使が天使たり得る理由だ。