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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

筒井康隆「アホの壁」

 筒井康隆さんの「アホの壁」を読みました。
 ここでは内容については特に言及しません。読んで呼び起こされたものを記述していきます。といいますか内容あんまり頭に入ってない気がします。
 
 この著作を筒井さんは「アホ万歳」という文句で締めくくっているのですが、僕も「アホは偉大だ」派でして、常々「アホってかっちょいいなぁ」と思っています。
 アホと天才は紙一重とでも言いましょうか(実際はバカでしたでしょうか)、アホというのは既存の文脈から逸脱している人のことで、いわゆる異物なんだと思うのです。
 
 例えばすごく適当なことを言ってしまいますが、かのアインシュタインの数々の閃きを最初に聞かされた人は「なにを言っているのだろうこのアホは」と口を半開きにして話半分に聞いていたのではないかと思うのです。(勿論業績を上げてからはそんなことはなかったでしょうが、まだ駆け出しの研究者だった頃はそうだったのでは?)←調べれば例を挙げられそうな気がしましたが、不精な僕をお許しください。
 ニュートン万有引力を発見した時でもコペルニクスが地動説を提唱した時でも構いません。
 基本的に周囲の反応は「なにを言っているのだろうこのアホは」だったのではないかと思うのです。実際に社会的に認められなかったりしていますし。(準備体操無しの投げやり。小学校低学年向け偉人伝レベルの知識)
 
 それは周囲が常識に囚われているからですよね。まず通念があって、それに照らし合わせ思考してしまうから凝り固まってしまう。思考の範囲外からの投擲には身構えてしまう。
 ですがアホは「常識ケツ喰らえ」とでも言いますか、そもそも自らの確固とした価値観に従って生きるのみですので、そこに目を向けないのですよね。だから突飛な発想ができる。往々にして世に名を残すことになるのですね。余人には想像もできない境地まで昇り詰めてしまう。
 
 この持論を限りなく希釈してゆけば、いわゆる空気の読めない人、コミュニーケーション不全の人も既存の文脈の反抗者として、良い意味でも悪い意味でもアホと分類されるのかもしれないのですが、それはこの記事では触れません。
 といいますかこれが実際に筒井さんが書かれていたことになるのかな?

 僕の興味はアホの効能にあります。
 アホになにができるのか。アホはどのように生まれるのか。その社会的役割は?

道化が「二つの世界」に通じる存在であることは。後年になって芝居の舞台に現れた道化たちが白・黒・、白・赤などのまだらの服装を着込んでいることに如実に示されている。道化は二つの世界をつなぐ存在である。 
 河合隼雄「影の現象学講談社学術文庫

 僕がアホと聞いて一番に思い浮かべるのは道化です。
 道化には惹かれるところがあって、なんというかあの哀愁が堪らないんですよね。
 みんなの為に犠牲になってる感じ。彼の犠牲は世界の犠牲。壊れもの注意ですね。いいですね。うふふ・・・・・・。

 引用先の著作では、道化の様々な効能が語られています。多少長いのですが、深く感銘を受けた部分を引用します。

ゆるぎのない規範によって統合されている王国に、規範を超える真実の存在を知らしめ、価値の顛倒をもたらす。本来、すべての事物は多様であり多価値的である。しかし、われわれ人間はそれらに「統一」を与えるために多くの事物のもつ多様性を切りすててしまっている。しかも、その世界に安住する人は、その事物の多様性を疑ってみることもなく、単層な世界構造を唯一のことと信じていきている。道化がしばしば行うトンボ返りなどのアクロバットは、このような空間の顛倒や破壊を象徴的に示すものである。道化の一言は、王を愚者につきおとし、愚者を王に仕立て上げるほとの威力をもっている。これによって人々は、固定した世界の「開け」を直覚し、新しい価値観の導入によって、そこに創造的な生命の流れを体験する。ここで、王の地位をさえ危うくするほどの、既存の安定感をつきくずす危険性は、道化のもたらす笑いによってカウンターバランスとされる。笑いは道化のもつ唯一の武器であり、もっとも強力なものである。笑いを失ったとき道化は命を失う。
 河合隼雄「影の現象学講談社学術文庫

 アホのグロテスクさは私たちの鏡像としてある、といった言説はさして珍しくもないですが、アホを道化と見なした時、その真の効能が見えてくるのではないかと思います。それは創造です。鏡像としてのグロテスクさは、私たちがそのグロテスクさから目を逸らさなければこの世界にひび割れを起こすことができます。要は世界が広がるとか価値観の顛倒とかいった意味ですが、しかし道化から抱くイメージがグロさだけではここ「破壊」止まりで終わってしまいます。
 道化は人々に求められた存在です。なぜ求められたのか。それは創造があるからだと僕は思うのです。

 道化は笑われる者として存在します。サーカスのピエロは人々を楽しませますが、それは極端に考えればその滑稽さが失笑や嘲笑を呼ぶからです。ではなぜピエロは必要なのでしょうか。それは安心する為ではないでしょうか。私たちはピエロの失敗やぎこちない挙動を見て、クスクスと笑いますが、しかし笑い終えた後はスッキリしているのではないかと想像します。私は私でいいんだ、とか、多少なりとも尊厳を快復し自己肯定できるようになるのではないかと想像します。(なにせサーカスを観たことがないもので…)
 「え、そんなことしちゃうの」といった価値観の顛倒・破壊の後には、さわやかさが香るものなのではないかと。

 サーカスのピエロは多少特殊と言いますか、あれは一種の芸ですから自覚的な振る舞いとして存在します。ということは要素が引き延ばされ使用されているということですから、参考にはなりますが鵜呑みにはできません。
 アホは本来的には名人芸であってはなりません。それでは芸になってしまうからです。ピエロはアホを「演じて」いるという考え方ですね。だってピエロを観て「すごいなぁ」と感心してしまうかもしれませんものね。
 アホはそこに他意を持たない為、一種笑いへと昇華されるのではないか、というのが僕の主張です。
  
 誰もがおののく恐王にさえ気ままに進言をし、そしてなお「こいつなら仕方ない」と許されてしまう存在が道化です。道化だけが恐王と対等の立ち位置にいます。それは彼がアホであるからです。アホとは無邪気な存在です。だから王も道化だけには気を許すことができます。

 「道化唯一絶対の武器は笑い」と引用最後の箇所でも述べられていますが、道化は笑われることによって道化たり得ます。笑われもしなく、蔑まれでもしてしまったら道化のエネルギーの大半を奪われてしまったも同然です。ただ蔑まれる者として、侮蔑的に見下されるだけ、これではその視線を送る者に創造を与えることができません。

 ここにひとつの鍵があるのではないでしょうか。アホは笑われてこそ力を発揮する。笑ってもらえなければただ蔑まれて終わりの醜い存在。それは道化ですらないでしょう。認められていないのですから。道化に他意はありません。自分の為でも他者の為でもなく、ただ思いついたから口に出すのみなのです。

 アホの行き着く先に道化がいるのではないかと思ったので同一視する形で追ってきたわけですが、もう一度このアホを自覚的に振る舞うことが可能なのか問題を考えてみたいと思います。ピエロの箇所で説明をした、アホは芸ではないといったあれです。
 
 芸人は笑われることが仕事ですが、しかし芸人であるからしてあれは芸として笑いを起こします。笑いを取る、といった言い方もありますが、一種尊敬のまなざしを持って私たちは芸人を見ると思います。特に日本ではお笑い芸人はあこがれの職業と化したところがあり、中心的存在としての笑われるものであるかと思います。
 例えば芸人に気持ちよく笑わせてもらった後に何が残るでしょうか。気持ちよさ、これが主立ったもので、そこに尊厳の快復は含まれないのではないかと考えます。それは関係として一方通行で、私たちはただ視線を送るだけだからです。
 比してアホならばどうでしょうか。アホは芸ではないので、笑いをとる為におかしいことをするわけではありません。(本質的にはそうですが、ここで職業的ピエロをお思い浮かべて頂いても支障はありません)アホはアホで自己完結しており、アホはただ存在しています。関係は並列的で、アホに送った視線は反転し自らに返ってきます。鏡像的、とはよくいったものですが(誰も言ってない可能性大)、そこからしかし世界の変容が始まります。超絶アホであれば、ビッグバンを引き起こすかもしれません。
 しかしその危うさは、道化の持つ笑いによって、中和される。らしいです。(引用後半の部位)ここはなんだかわかったようなわからんような。惹かれる箇所ではあるけれど。
 
 アホは自己完結的です。すべからく孤立した存在、注がれる視線は羨望ではなく同情で憐憫です。鏡としての憎悪(嫌悪)としかしもどかしいくらいの愛情です。この二律背反の感情をアホは喚起します。

(コメディの中で、主人公が女性を獲得したり成長したりするのに比べてという文脈の続き)----道化は初めから終わりまで変わることがなく、そのままである。しかし、これこそは真の救済者の姿に近いのではなかろうか。自分の変化はまったく問題外なのである、それはそれでいいのであり、救われるべき若者たちの幸福が中心とされるのである。
 河合隼雄「影の現象学講談社学術文庫

 道化は変化しません。自己充足的であるからです。だから私たちはそこに憎悪と愛情を抱くことができます。気ままな振る舞いだからこそ喚起される感情があります。
 引用先の著作でもチャップリンを例に出し、この部分を説明しています。道化に変化が起きないということは、恋が成就しないということであり、この道化の恋という主題はチャップリンの映画でよく表現されていると説明されています。確かに僕もチャップリンをチラ見したことがありますが、そんなイメージを抱いています。

 以上、かなり極端に事象を捉えてきましたが、そうした方が効能の要素を見て取りやすいからというだけで、特に他意はありません。
 ただ、今回僕はアホと道化を同一視する形で進めましたが、それは僕がこれらから同じ感覚を抱いているからで、もちろん全然別物だよといった意見もあるかと思います。何度も言っていますが(そしてつもりはなくとも逃げ口上のようですが)、僕はこのブログの大半の記事を僕が僕を知る為に書いていて、ですが公表するからにはせめて叩き台か踏み台になってくれたら嬉しいと思っていまして、ですからこの記事からあなたが全く別の思考を辿ることになったとしても、それを大事にして頂きたいし、そうして頂けたらうれしいです。
 ふわぁ。
 
 では、最後に、なんとなく思い付いたのでこの引用で締めくくりたいと思います。

道化 もしお前さんが俺の阿呆だったらな、おっさん、年より早く年寄りになり過ぎた懲らしめに、ぶんなぐってやるところだよ。
リア どうしてだ?
道化 年寄りになるのは、知慧を貯めてから後の事にして貰いたいものだね。
リア おお、俺を気違いにしてくれるな、気違いにだけは! 頼む、正気にしておいてくれ、気違いになるのは厭だ!
リア王シェイクスピア 訳:福田恒存 新潮文庫

 (意味なんてないよ、ここにないよ。)