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開店休業

趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

小説作法研究、その2。~視点編~

(その1っぽいのがこのブログのどこかにあるはずです) 

 

 以下、自分用メモを少しわかりやすく纏めたものになります。叩き台&踏み台にして頂けたら幸いです。

 

■一人称視点→「NHKにようこそ!」「フリッカー式

 ●共感を誘いやすい。何故なら作者は主人公になりきって描くから。作者は主人公に憑依する。読者も主人公に憑依する。作者は神降ろしのシャーマンやいたこ的存在。それは自分にとっても読者にとっても。主人公と共に苦しみ、笑い、泣く。読者は主人公の気持ちをそのままに受け取れるから共感を得やすい。逆に言えば共感を得られないと興味を失してしまう可能性がある。これをあえて採用するのであれば、第三者的に「見守る」立ち位置を与える方向にシフトすることとなる。あなたの物語ではないけれど、彼の物語であり、彼の生き様はあなたの胸を打つでしょう?的な。応援を促す。(クロスチャンネル

 ●逆に、共感要素が全くない程のへたれ、もしくは性格の悪い主の場合は、まあ反面教師くらいにしかならないのではないでしょうか。作者のある種の諧謔を楽しむといった要素を孕み、「作者」へとシフトする可能性は大いにあるが。ブラックユーモアがそんな感じ。(前者:スクールデイズ、後者:少し意味合いが異なるが「フリッカー式」はそれを描いている作者を楽しむ視座を与える)

 ○情報開示、心理描写に制限はなく、どこまで開くかも主人公の性格・性質となる。

 <補考>
 ○基本的に(選択に伴う)感情の爆発と相性がよい。葛藤の末の回答・行動。カタルシスの発動。爆発力に優れている。要するに「行動に至るまでの心情」を描くものと考えるとよい。内面描写に適している。人の頭の中を覗き見る感じ。
 ○アトラクション、というイメージが浮かんだ。ジェットコースター等、乗り込むタイプの遊戯。比して三人称はシンデレラ城?など、先導スタッフがいる。
 ○個人的な体験が全てとなる。個のなかの全を描く。
 ○世界は主人公の触感によって彩られる。よって文章の体裁は主人公の手触りを反映することとなる。逆に言えば、繊細な主人公でもないのに繊細な感覚を描くことはできない。乖離が起きてしまうから。


■二人称視点(「あなたは」と訴えかけられるようなもの)→(確かアンシリーズの一作)、村上春樹編訳「バースデイ・ストーリーズ」の中の一篇「永遠に頭上に」

 ○【作中人物が作中人物に向けて語っているもの(例えば手紙形式など)】か【作者が読者に向けて語っているもの】かで大別される。前者は「(確かアンシリーズの一作がそんな感じだった)」。後者は村上春樹訳「バースデイ・ストーリーズ」の中の一篇「永遠に頭上に」

 ○手紙形式のものは情報開示や心情開示に適している。お涙頂戴の常套手段。

 ○「作者が語りかけているもの」は催眠的であり、心理テストに近い印象を受ける。作者は読者の目の前でふりこを振っている。催眠療法的。

 ○ハメられた時はその移入度もかなりのものとなるが、余程繊細に行わないと催眠が解けてしまい、白けさせる結果に終わるだろう。「あなたは」といった直裁な語り口は否応なしに作者を意識させてしまうから。特に僕と同じようなひねくれ者さんは身構えるだろう。

 ○催眠であるからして、最後に「自らの力でやり遂げた」といった感覚を植え付けられた時の破壊力は抜群と思われる。
 「ボードはこくんと肯き、君は行くだろう。そして皮膚でつくられた二つの黒い目は、雲のしみがたくさん浮いた空に盲目の視線を交わすことができる。永遠であるぎざぎざの岩塊のうしろに反転の散った光が注ぐ。それが永遠だ。皮膚の中に足を踏み入れ、そして消える。やあ。」村上春樹訳「バースデイ・ストーリーズ」の中の一篇「永遠に頭上に」白水社

 <補考>

 ・君は、何を今、見つめているの。


■三人称一人視点→「1Q84

 ○三人称で主人公を追いかける視点。多寡はあるにしても心理描写はある。原則的に主人公が触れている景色(存在している空間)しか描写できない。

 ●ややこしいのはいわゆるカメラの位置。「○○の方にやってきた」か「こちらにやってきた」どちらを採用しているかによってポジションが異なる。カメラの位置、を意識しておくと混乱をきたすことなく進められるだろう。

 ●「○○の方に」の場合は、いわゆる空間を広く捕らえており、対象との距離があると考えてよい。どちらかと言うと横から少し引いて見ている。もしくは、カットを繋ぎ合わせていると考えてもよい。カメラは均等に人物を捉えている。
 
 ●「こちらに」の場合は、カメラは主に主人公の背中から事象を捉えている。背後霊のように。1Q84は前者。というか大体前者。

 <補考> 
 ○三人称視点の中で一番一人称に近い。

 ○時には主人公の知り得ない「意識に昇らない心情」等も描写されることがある。そこらへんはバランス。


■三人称一人カメラ視点→マルタの鷹

 ○「三人称一人視点」との違いは、説明・心理描写の有無。こちらは基本的には描かれない。(実際は要所要所で描かれると思うが)

 ○カメラは主人公に寄り添う形で最後まで進むが、内面には入り込まず、「カメラ」でしかない。(実際には多少の作者の所感等も入るが→【彼女は象のような足を組み直した】ここで言う「象」は比喩表現であり、作者の主観である)

 ○カメラは必ずしもべったりと主人公に張り付いている必要はなく、主人公が存在している空間内であればどこでも映す事ができる。例えば「セナ(主人公)はテニスボールを手に隣室へと向かった。その間に智子は鏡に向かい髪を櫛で梳かした。セナが戻ってくると智子は櫛を隠し、何気なくセナに微笑みかけた」。


■三人称カメラ視点→内面描写なし「(ちょっとすぐには思いつかない、ロブ・グリエ「迷路のなかで」?)」 、内面描写あり「地下鉄のザジ

 ○カメラは主人公に張り付くことをせず、空間内を自由に移動する。

 ○内面描写ありは「神視点」と似ているが異なる。神視点は「ルルはおもしろくなかった。それは私のものなのに。そう思った。ララはそんなルルの心情を見抜いていたが、あえてそれを手に取ることにした。」こんな感じでパッパッと視点の切り替えが可能。比して【三人称カメラ(視点内面描写あり)】は段落毎に区切って一人を追う形となる。パッパッとはいかない。


■三人称カメラ人格視点→村上春樹アフターダーク

 ○特殊な視点。明らかにカメラが人格を有している。アフターダークで言えば自ら「カメラは○○を捕らえる」とか「視点としての私たちは」とか言っちゃってる。

 ○幽霊的、というのがしっくりくる。


■神視点→「レ・ミゼラブル

 ○作者、大いに語る。一番「語って聞かせよう」という意志の強い形式。力強さを感じる。作者が作り出した世界を、私たちは外側から眺める。

<三人称視点全体の補考> 

○三人称視点で描くとは、平均的に描くということであり、一人称視点よりも爆発力という点では劣る。内面描写も過剰なものではなく、落ち着いた語りとして存在することになる。むしろ行動によって「世界」を描写するものが三人称視点と考えるべきだろう。「描写」に特化した表現なのだ。そして主に「物語」において行動とは人との関わりあいのなかで呼び起こされるものだ。一人称視点とは違い、世界の中の一人として描かれることとなる。「全のなかの個」。複数の中の一人として描かれるのであり、それは「作者が第三者の視点を持って主人公を見て語っている」のであるのだから当然だ。主人公は自分ではないのだ。あくまでも「こういう人もいるんですよ」という存在なのだ。

○世界の広さ、という観点から見れば、明らかに描ける範囲として三人称視点に軍配が上がる。未知のもの、例えばSFを描くのであれば説明描写も多くなるだろうから、三人称視点の方が描きやすいのではないだろうか。三人称視点は全を描くから。

○読者は外側から自己を投影させることになり、誘導者の説明を聞きながら物語を追いかける。その意味で言えば、「他人」に興味の薄い人は移入させ辛いかもしれない。

○三人称視点とは、世界を「観察」するのだ。(この思いつきは的を射ている気がする)

 

<全体の補考>

・一人称視点の語りでは作者は主人公に成りきっており、その都度行動を起こす(記述していく)といった意味合いで捉えれば「現在のかほり」がする。比して三人称視点での語りでは、作者は距離を置き行動を記述しているわけで、そう捉えれば「これこれこういうことがありました」と全ては過ぎ去った出来事だ。過去的である。朗読的といってもいい。

●「○○は○○する」といった現在形での語りについて考える。これは使い方・効果が色々とある。ひとつひとつ見ていきたい。

●例えば神視点で使用された場合、距離を孕み演劇的となる。

●例えば三人称一人視点で使用された場合、少し二人称に近づき催眠効果を孕む。

●重要なのは一人称である。例えば村上春樹海辺のカフカ」少年視点での一人称は現在形での語りだったが、これは厭世的というべきか、主人公が能動的に行っているといった感触よりも、少年の後ろで少年がその行動を見ているといった乖離的な感覚を抱かせるものであった。主人公と世界との間に距離があり、現実感が喪失されている。これは一見神視点と同じく距離を孕み移入度がそがれているように見受けられる。実際、そう受け取る人もいるだろう。しかし、この「距離感」が「肌に合う」人にとっては移入度は増すのである。

●この「海辺のカフカ」で現在形が採用されていたのは、それが主題のひとつとなっていたからである。ただファッションとして採用されていたわけではない。希薄な現実感、厭世的な感触。これを孕むよう設計されている。詳細に説明はしないが、事実少年の旅は現実に着地する為の旅であった。少年はもう一人の自分を取り戻した。

●「希薄な現実感」「厭世的な感触」は基本的には読者との距離を生むものである。移入というよりかは眺める感覚になるからだ。が、読者の中にはこの感覚に共感を抱く人もいるという事実は大切だ。その場合は、この描写が共感装置として働く。一気に「わたしの物語」としての吸引力を孕むこととなるからだ。

・一人称では、キャラクター(主人公)に訴えかけられることとなる。結末後に「なあ、そうは思わないか?」と語りかけられているような感じ。三人称では、作者に訴えかけられることとなる。結末後に「そうは思わないだろうか?」そう作者から語りかけられているような感じ。一人称は作文的であり、三人称は物「語り」的である。

・カタルシスは、事件と事件が絡まり合ってぐあぁあっとやると得られやすいんじゃないでしょうか。(なんだと)

・あと関係ないけど普段ラノベを読まない友人に「NHKにようこそ!」をパラ見させたところ、「こーいうのの元祖って若きウェルテルの悩みやろな」とか言ってた(うろ覚え)。聞くところによると当時ウェルテルを読んで実際に自殺者が多数出たらしい。ほほう。

 

  以上、全て厳密にこの通りというわけではなく、要素は希釈し攪拌され使用されている。もちろんこれらを無視し執筆してもなんら問題はない。そこのあたりは作風の問題だと思います。

 ・・・・真に受けたらそこで試合終了ですよ。(切に