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壊れもの注意!─境界線上に佇む少女たち─

 

 あまりに先鋭化されたもの、また研ぎ澄まされたものは、内奥に激しい緊張を秘めているためおしなべて壊れやすくなるという消息である。
 松岡正剛「フラジャイル 弱さからの出発」ちくま学芸文庫

 松岡正剛さん「フラジャイルー弱さからの出発ー」を読み、とても感銘を受け、「どうもぼくは壊れもの注意な少女が好きらしい」と気が付かされたので記事にしたいと思います。
 そのような少女に惹かれる傾向、嗜好性がぼくにはあるらしいのです。
 では、ぼくにとって「壊れ物注意!」とは具体的にはどのような意味なのか。
 それをご説明していきたいと思います。

 なお、これからつらつらと持論を展開させて頂きますが、「こいつ何言ってんのかさっぱりわからん!」とお思いになられましたら、とにかく次項の結論だけでも記憶に留めて帰って頂けたら嬉しいです。
 この視野を与えられただけでも、ぼくとしては作者冥利につきるところでありますし、実のところこれ以上のことは何も言ってはいません。
 ただ「ぼくにとっての」細部を検討しているだけのことで、あなたが「この少女は壊れ物注意だなぁ」と感じたのならば、それがぼくの言っていることと異なっていたとしてもそちらを優先して頂きたいです 。
 これはぼくにとっての弱さの感覚を突き詰めているだけのことで、またあなたは異なった感覚をお持ちになられているだろうと思います。
 この記事が、あなたの感覚を呼び起こす一助となれましたら、それに勝る喜びはありません。
 では──。 

 最初に結論から言えば、壊れ物注意な少女とは「一見強そうに見えるが実はとても脆い、ガラス細工のような少女」のことを指している。
 例を挙げるならば、
 【雪影】の平山深雪
 【果てしなく青い、この空の下で】の八車文乃
 【殻ノ少女】の朽木冬子
 の三人ということになるだろうか。(一応キャラ紹介ページリンクを張っておく)

 ただし、この三人はこれから論を展開していく上でとても説明しやすい、特徴を端的に示してくれている少女達なので例に挙げたまでで、実際には他にも大勢存在する。
 この点は誤解なきようお願いしたい。

 以下、この少女たちを用いての詳細な考察に入る。
 要素はお好みに希釈してご使用下さい。

(目次代わりに)壊れもの注意な少女達の特徴。
 A、境界線上に佇んでいる。
  (1)こちら側へ着地した場合。
  (2)あちら側へ着地した場合。
    ①【殻ノ少女】朽木冬子から見る永遠性。(途切れてしまった、という感触)
    ①─(2)【殻ノ少女】朽木冬子から見る永遠性。(人身御供としての少女。そして聖母となり、子を見守る)
    ①─(3)【AIR神尾観鈴と【殻ノ少女】朽木冬子対比による、よりわかりやすい永遠性の説明。(世界を肯定させる少女たち)
 B、【I”s】秋葉いつきから見る「内に溜め込むということ」(長年の想い)
 まとめ。(冒頭の引用文だけでも覚えて帰ってね!)


miyuki02.jpg平山深雪。(姉さん)      BMP2B.jpg八車文乃
004573fe.jpg朽木冬子。      images2秋葉いつき

A、【雪影-setsuei-】平山深雪から見る「境界線上に佇む少女」

 壊れ物注意な少女は境界線上に佇んでいる。
 「こちら」と「あちら」の間の細い細い平均台の足場のような場所で、ふらふらと揺れている。
 少しでもバランスを崩せば「あちら」側の奈落に吸い込まれてしまう。
 彼女はそのぐらついた足場の上で、じっと、ただじっと佇んでいる。

 壊れ物注意な少女は身動きが取れない。板挟みのような状態にあり、自分ではどうにもならない状況に追い込まれている。それは境界線上である。彼女達は、境界線上に佇んでいる。

 境界線上とはなにか。
 それは「日常」と「非日常」の堺という意味である。
 物語の始め、彼女達はその境界に立ち主人公と出会い、最終的には「こちら(日常)」か「あちら(非日常)」に着地する。

 (1)こちら側への着地。
 
 簡略的に説明すると、この深雪は山人という山の中で暮らす人々の最後の一人であり、その生は山人という宿命を背負うことから始まる。
 しかしそこに不幸な事故が重なり、彼女は「人食」という禁忌を犯すこととなる。それはやむを得ないことであった。けれどそのことで一層彼女は疎外され、忌み嫌われ里で生きる道は断たれ(実際はもっと入り組んだ理由はあるにしても)、奥深い山の中ひっそりと山人としての宿命を受け入れ生きている。そんな少女である。

 この説明からわかっていただけると思うが、世界はかくも彼女に厳しい。厳しすぎる。彼女の力では何一つどうすることもできない。一人堪え忍ぶことしかできない。
 これが物語始めの深雪の状況であるが、彼女はこの時境界線上に立っている。つまり、日常と非日常の狭間の平均台の足場に立っている。
 主人公と出会い、物語が展開し、最終的に「こちら(里)」か「あちら(山)」に着地する。
 この足場は、彼女の力ではどうすることもできない「世界の力」によって作られたものであり、彼女はそこにふらふらと立つことしか許されていない。
 平均台とは、彼女達の生きる現在を指している。

 この深雪、最終的に雪影の「トゥルーED」では「こちら側」に着地し、里で主人公と共に生きていくこととなるのだが、それは主人公が意を決し彼女を「迎えに」行ったからで、その蛮勇によって彼女はこちら側に着地することができた。
 けれど、いわゆる「バッドED」には、彼女は姿を消し、二度と会うことは叶わないといった内容のものもある。

 壊れもの注意な少女は一人堪え忍んでいる。
 その為、少女に対する主人公の役割は、境界線上に佇む彼女達の手を取り、こちら側に引き寄せることにある。

 美少女ゲームはその特質上、マルチエンディングを取ることが多く、前述通りに幾通りものラストを迎える。
 けれどそれは「主人公が彼女の手を握れたかどうか」の結果という意味では同じであり、やはり多くの場合最終的に「うまくいく」EDが用意されていることが多い。
 つまり人生の一回性というものから逸脱したものが美少女ゲームであるのだから、幾つかのルートでうまくいかなかったとしても、すべからく彼女達が物語のフィナーレには「こちら側」に着地するよう計られているといってもよいだろう。
 主人公は彼女を迎えに行く「騎士」となり、宿命の鎖を断ち切り、彼女の手を引き「こちら側」に連れ戻す。
 主人公の役割は、彼女の手を取ることにある。
 
 「日常への回帰性」、壊れもの注意な少女達はこれを志向する。
 そして主人公はこれに対してなんらかの覚悟を決める。
 日常とは「失ってしまったもの」である。言うなれば喪失である。
 彼女達は喪失を抱え、生きている。

 喪失とはなにか。
 彼女達はどうにもならない状況の中で生きている。だから、そこから抜け出したいということだ。張り詰めた緊張状態からの脱出。
 多少大袈裟に言えば、「自分を取り戻す」という一言に集約されるだろうか。
 
 しかし、ここで一つ懸念がある。
 本来的に物語の多くは「自分探しの物語」であり、むしろ自分探しの物語でないものを探すほうが難しい。それは物語がすべからく「変化」を描くものであるのだから当然のことだ。
 物語の最初と最後で、何かしらの変化が起きており、その変化は心に起因するもので、要するに空白が埋められたということなのだから、なにかしらの決着は付くものなのである。損なわれた状態から始まり、それを回復する為に物語は進む。
 それを自分探しと言ってしまえば、やはり多くの物語は「自分探し」の物語となる。
 だから「自分を取り戻すとかあたりまえじゃん」と言われてしまうとこちらとしても耳が痛い。

 なので、きちんとこれらの物語との相違点を挙げておくと、この自分探しを彼女達は生まれながらに志向せねばならなく、そしてそれは一人では達成せられない状況に追い込まれているということだ。彼女達は生まれながらに損なわれてしまっており、生まれながらに安息の地を持ち得ない。(もちろんこれは便宜的に僕たちに日常を「充」と見た立場で言えば、という意味)

 生来的に、彼女達は世界の隙間にすっぽりと嵌ってしまっており、身動きがとれない状態にある。
 いつだってそこに主人公の「意志」が介在しないと、彼女は救われない。袋小路なのだ。偽りの強さを身に纏いながら、雨風に耐え、心の深奥では救いの手を求めている。
 世界の重さが、彼女達に日常を求めさせるのであり、その願いは主人公との邂逅がなければ生涯達せされることのなかった、他に類を見ない切実なものである。 
 宿命が、彼女にそう願わさずにはいない。
 
 例に挙げた三人、ご存じの方には納得して頂けるだろうが、彼女達は生を授かった時点でもう「日常から逸脱した存在」だった。
 彼女達にとって日常とは、限りなく特別なものなのであり、だからこそ胸打たれる。(何度も言うが、ここで言う日常とはぼくらの生に根ざした「社会」を基軸とした考えた日常という意味)

 さっきからぼくは「運命」だとか「宿命」だとか言っているが、まあ要するに自分のせいではなくどうしようもない状態に追い込まれているということを言いたいのだが、厳密にこのふたつはどう違うのだろうか。
 私的定義で恐縮だが、ぼくとって「運命」とは【現在に降り注ぐもの】であり、「宿命」とは【生を授かった瞬間から定められていた道】という意味である。
 その意味でどちらがより「壊れ物注意」かといえば、【宿命】に軍配をあげたい、ということになる。
 何故なら宿命は「自分の力ではどうにもならない、予め既に定められてしまったもの」であるからだ。 (ただ、厳密に言えば「運命」と「宿命」は緊密に絡み合うものであると思われるので、殊更種分けする必要もないだろうとは思うが)

 話を深雪に戻そう。
 彼女はその宿命を受け入れ、粛々と隠れるようにして日々を過ごすことしかできない。
 だが、彼女はその宿命を受け入れている。ひとつもわがままを言わず、いや、正確には主人公と冬の間の一時期だけ過ごすというわがままは持っているだが、それくらいしか望みがない(言えない)というところがまた不憫である。

 この深雪は天涯孤独な身となってしまった主人公を助けてあげようと、冬の間だけ里に下り共に過ごしてくれる。
 主人公はそんな姉にもうべったりで(深雪は姉と呼んで欲しがる)、また深雪も姉として完璧な居振る舞いをする。
 だから一見そんな深雪は内に強さを秘めた少女に見受けられる。自らの宿命すら受け止められる凜とした強さを持った少女だと。
 しかしぼくが言いたいのは、その強さは見せかけだけの、とても脆いものでしかないということだ。
 こつんと叩けばパリンと亀裂が走りあまつには砕け散ってしまう、そんな「張り詰めた」強さだ。彼女は自分の意志でそれを纏っているのではなく、生きる為に纏っているだけなのだ。
 その強さは仮初めである。とても儚く、脆い少女なのだ。
 だからぼくはそこに「フラジャイルな感覚」を抱く。

 

(2)あちら側への着地。


 さて、境界線という概念はご理解頂けただろうか。
 「こちら」と「あちら」、大体において彼女達は「こちら側」に着地を果たすこととなる。それが美少女ゲームの特性だからだ。
 だがしかし、しかしである。
 驚くべきことに、トゥルーEDにも関わらず少女が「あちら側」に連れ去られてしまう物語も存在する。
 それが「殻ノ少女」である。

  ①【殻ノ少女】朽木冬子から見る永遠性。(途切れてしまった、という感触)
 
 この「あちら側」への着地は、ノベルゲームでなければ別段驚くべきことでもない。
 小説や映画などでは物語は一回限りな為、最終的に悲劇的な「あちら側」への着地も珍しいものではない。
 けれど、殻ノ少女ではトゥルーEDと思われるEDでこれをやってのける。この精神、ブラボーである。

 さて、とうとう冬子の出番とあいなるわけだが、ぼくは冬子以上に壊れもの注意な少女を他には知らない。

 冬子は文字通り、「壊れてしまう」。
 儚く脆く、散ってしまい、二度と会うことは叶わなくなる。
 その悲劇性。
 これにより、ぼくの中で彼女は永遠となった。
 彼女は「あちら側」に吸い込まれてしまうことによって、永遠の少女となったのである。

 悪童っぽく生きている彼女が、われわれの前で、変貌し、謎めき、大きくなり、殺されつつ、殺されることによって、邪悪な暴力を越える存在、天使となって<あたし>の中に振ってくるのをわれわれは<あたし>と共に体験する。
 桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」解説より。(角川文庫)

 
 これは桜庭一樹さんの著作「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」という小説のヒロインについての言及であるが、これを冬子に置き換えて考えてみると、ぴたりと嵌る。この二人、瓜二つなのである。
 冬子も迷いの中で変貌していき、これからの脱皮を予感させながらも殺されつつ、最終的には殺されてしまうことによって、邪悪な暴力を越える存在、天使となって<ぼく>の中に振ってきた。彼女は永遠の少女となった。

 何故、永遠となったのか。
 それは「途切れてしまった」感じや「やり残した」感じがあるからだ。無限の可能性を秘めて、これからという時に彼女は消えてしまった。だからこそ受け入れられない。受け入れられないから彼女はこの胸に生き続ける。

 ぼくの感覚で言えば、「こちら側」に着地を果たすよりも、「あちら側」に吸い込まれてしまう少女の方が、よりフラジャイルである。
 途切れたり、やり残したりしてしまったものは、その「喪失感」が半端ではない。
 失われてしまった、その感傷はいつまでも胸に残り続ける。
 ふっとした瞬間に消えてしまう朧気な存在。
 世界にその存在を許されてはいない少女。

 これは早世してしまった才人に抱く憧憬に近いものなのだろうとは思う。
 あえて例を挙げずとも、若くして世を去ってしまった才人は死後もなおその輝きを失わないことはどなた様にもある程度頷いて頂けることだろう。いや、むしろ輝きを増すケースすらある。
 彼ら彼女らは皆カリスマ性を持つ。
 カリスマ性とは想像させることによる。死は、こちらの想像力を喚起する。

 しかしぼくは冬子に限って言えば、彼らとは異なった所感を抱いている。
 それは、彼女にとって生きるとは「日常への憧れ」であったということだ。
 彼女は何も特別な人間ではなかった。
 だからこそがむしゃらに生を求めていた。
 葛藤がそこにはあった。
 この葛藤が大事で、それはとても個人的なものであるということだ。
 つまり、彼女の生は元より共同体の外に位置するものであり、彼女の望みが叶わず連れ去られてしまった為に痛切である、ということだ。
 かくも世界は冷たいのか。

 ここでぼくは唐突に「共同体」という言葉を持ち出した。
 しかし彼女達の生が「日常から疎外されている」ものであるとしたら、共同体という名の「日常」の外に位置していることは自明のことかと思う。
 だが、しかし、忘れてはならないのは、彼女たちは自らの意志でそんな立ち位置に生きているのではなく、立たされているのであり、誰に立たせられているかといえば、「ぼくら」になのである。
 多少論が飛躍し過ぎた感があるが、面白いのでこのまま進める。
 ……へヘッ!

  ①─(2)【殻ノ少女】朽木冬子から見る永遠性。(人身御供としての少女。そして聖母となり、子を見守る)

 彼女達の存在は、世界に求められたものである。
 彼女達はぽっかりと開いた世界の隙間にはまり込んでしまっている存在である。
 何故そうなる必要があったのだろう? 
 なんの為に?
 いつだって彼女達は犠牲者、しかし何故彼女達は犠牲にならなければならなかったのか。

 それは、彼女たちがぼくらの罪を引き受けているからだ。
 読者として、いち受容者として、ぼくらは彼女達にそれを求めている。彼女達にぼくらの穢れた魂を浄化してもらうことを望んでいる。
 人身御供としての少女。
 神に捧げられた少女として、彼女たちは存在する。

 先程ぼくは冬子の存在が永遠となったのだと述べた。これはつまるところ彼女がぼくの聖母となったと 、大袈裟に言えばそのような意味だ。ある種宗教的な観念ではあるが、実際にそう感じてしまったのだから仕方ない。
 何故そう感じてしまったのかといえば、このぼくの魂が浄化されたように感じられたからだ。
  

 悪童っぽく生きている彼女が、われわれの前で、変貌し、謎めき、大きくなり、殺されつつ、殺されることによって、邪悪な暴力を越える存在、天使となって<あたし>の中に振ってくるのをわれわれは<あたし>と共に体験する。
 桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」解説より。(角川文庫)

 
 文字通り冬子は邪悪な暴力を越える存在となった。ぼくは彼女の生を間近に見届けたことにより、世界をより肯定できるようになった。
 これを少し話を大きくして説明してみれば、ぼくにそのような所感を抱かせる為に彼女は死ぬ必要があった、ということになる。

 別段メタを意識しているわけでない。メタ概念など使用できる頭はぼくにはない。
 ただ一つ言いたいことは、彼女達が世の悪を背負い、健気に生きること、そして時に死んでしまうことは、ぼくの罪悪感を刺激せずにはいない、ということだ。
 彼女の生が、ぼくたちに罪の意識を植え付ける。
 なぜ、どうして。
 なぜそんなひどいことにならなきゃいけなかったんだ。
 救いたい。
 でも、救えない。
 ああ。

 これは物語内で考えてみてもそうで、主人公は彼女達と触れ合っていく中で、自分たちの側(共同体や自分自身)の罪と対峙していく構図となる。
 彼女たちと接するとは、日常から逸脱していくという意味で、だからこそ自分の足場を再認識できる。
 共同体を維持する為に犠牲になった少女、と規模を小さくして言ってみればそれっぽくは聞こえるだろう。
 日常への回帰性を志向する、少女たちのこの特性を忘れてはならない。

  ①─(3)【AIR神尾観鈴と【殻ノ少女】朽木冬子対比による、よりわかりやすい永遠性の説明。(世界を肯定させる少女たち)

 さて、大分話が飛躍してきた。
 飛躍ついでにもっと飛躍していこう。
 お次は我らがアイドル、AIRの観鈴ちんである。
 
 言わずもがなの悲劇のヒロイン観鈴ちんであるが、AIRという作品をご存じの方からは「観鈴こそがキングオブ壊れもの注意だ!」とのお声を頂いてしまいそうなくらい印象深いフラジャイルな少女である 。
 簡略的に説明すれば、生まれついてとても身体の弱い少女、ある夏、主人公と出会う。その邂逅により歯車は大きく動きだし、なんやかんやあってゴールしてしまう話だ。
 …………ごめんなはいリンクはっておくからゆるしてくだはい→えあー。

 もちろん観鈴ちんもとても壊れもの注意な少女である。
 そしてこの観鈴と上述した冬子、けっこー似ていたりもする。
 
 というか、この少女たちの結末から、同じ様な感傷を抱かされた。
 冬子の物語の方が現実寄り、観鈴ちんの物語の方がファンタジー寄りという差異はあるにしても、細かな「消失理由」の差異はあるにしても、彼女たちが自らの力では為す術無く壊れてしまったという大きな意味合いでは同じである。(AIRの設定を微塵も飲み込めていない都合上、慎重を期し言葉を選んでおります)
 冬子、観鈴、最終的には「あちら側」に吸い込まれてしまう。
 罪を一身に背負って、人身御供として消え去ってしまう。
 そして彼女達は永遠となり、ぼくらの聖母となる。

 前述してきたことは、AIRで考えていただいたほうが受け入れてもらいやすいのかもしれない。
 美鈴はもろに世界の罪を引き受けて、世界という共同体維持の為に死すべき宿命にあった。
 だからとてもフラジャイルである。
 読後感は本当に似ている。

 ただ一点、この二人で異なっていること、それは「生への決着」である。
 美鈴は「もうゴールしてもいいよね」名言通り、自分の生に決着を付けて奈落に吸い込まれた。そこには喪失への準備期間があった。
 設定を飲み込めていないのに下手ことを言うとファンの方に叱責を頂いてしまいそうなのだが、観鈴のその死は無益なものではなく、千年に渡る呪いを解く、ある種観鈴にとっても(プレーヤーにとっても)前向きな死でもあったと記憶している。それ自体は悲痛だが、もうそれ以後の転生では苦しまずにすむ、 という。呪縛を断ち切った意味ある死であった。

 比して冬子の消失は、冬子自身にはなにも利益を産まない。(その生のあり方がぼくらの胸を打つとしても)
 突然奈落に吸い込まれた。文字通り「消失」してしまった。 
 ぼくとしては、冬子にフラジリティという点では軍配を上げたい。

 フラジリティを描いたこれらラストであるが、フラジリティを描くとは「現実を描く」ということと似ている。
 彼女達の存在がぼくらに現実を肯定させるのだとすれば、その物語は甘く閉じないほうがより効果的だ。
 開かれたまま終わったほうが、想像力が喚起され、永遠性が保たれる。
 「その後の現実」を想像させるほうが、よりフラジャイルである。
 何故なら、物語が結末を迎えるとは、前述した通り「こちら側」への着地を果たすことが多く、そうなると物語にある種の決着が付いてしまい、受け手の心の中でも決着が付いてしまう。
 これはハッピーエンドと比較して言っている。
 ハッピーエンドにも種々あるのは重々承知しているが、バッドエンドに近い方がフラジャイルであるというイメージは、壊れもの注意という語感から少しは共感して頂けるかと思う。
 実際殻ノ少女のラストは、あまり「綺麗な」EDとは言えず、事件も未解決な部分が多く残ったまま終わった。BADEDに近いかも、と言えなくもない。
 「え、これで終わり?」と感じたプレーヤーは多いと思うが、ぼくとしてはだからこそこのEDに胸打たれた。いつまでも引き摺る結果となった。 

 つまり、途切れてしまった物語とは、ぼくらを雨風に晒し、「それでも現実は続いていく」といったイ メージを喚起させる。
 その中で彼女達の存在がある種の救いとなり、彼女達の生を見届けたことにより世界を肯定できる、しなければならないと心揺さぶられる。
 世界の隙間に吸い込まれてしまった彼女たち、立ち向かいたくとも立ち向かえない少女を見た時、ぼくたちは彼女を救ってあげられなかったことに心痛める。
 なぜ、どうして、もっとどうにかならなかったのか。
 (ならない、ならないからこそ現実)

 そして、それでも世界を肯定しようと微笑していた少女の健気さに、儚い美を見る。
 その美はとても強いものである。誰にも汚すことのできない強さを秘めた美である。
 しかしその強さは、悲しいまでに悲壮感漂う、見る者の胸を締め付ける美である……。
 この世の罪を背負ってもなお世界を愛した少女。
 その強さは張り詰めている。張り詰めて張り詰めて、切れてしまった……。

B、【I”s】秋葉いつきから見る「内に溜め込むということ」(長年の想い)
 
 さて、大分遠いところまで来てしまった。果たしてここまで付いてきてくれている屈強な精神を持つ読者様はいらしゃるのだろうか。謎だ。
 今まで述べてきたことは冒頭述べた通り、わかりやすく極端に説明しているのであり、言うまでもなくフラジリティはもっと些細な、日常のそこかしこでも見つけられるものである。
 少し極端なお話ばかり扱ってきてしまったので、ぼくの主張が伝わっていない可能性がある。
 ぼくは「ぼくにとってのフラジリティ」を、一番わかりやすい形で示しているだけであり、仄かに感じさせる、くらいのキャラだっている。そしてそちらの方によりフラジリティを感じたりもすると思う。この感覚はとても繊細なのだから、複合的に作用が絡まり合う中で自らの内に生成されるものだ。
 今までの説明が全てではないことご承知頂きたい。

 さて、このような懸念があるのでここでは少し現実的なお話を扱いと思う。桂正和さん「I"s」である。

 ぼくはこの秋葉いつきというキャラが初恋だったのだが、このいつきは主人公への想いを胸に秘め、しかしそれを自ら諦めて身を引く少女だ。健気なんである。
 ぼくは思春期まっただ中、この少女に「壊れもの注意」なフラジリティを感じていたのだと思う。
 まあなんというか、ぶっちゃけかわいそうでかわいそうでもっと報われて欲しかったんである。
 だって幼少時からずっと主人公だけを想って生きてきたんである。報われないなんてあってはならないんである。それだけ想いは深いんである。重いんである。うっはぁああああああいつきちゅわぁんまじらぶらぶきっすぅうううううううううう!!!!
 だったんである。

 ここでハッと思い付いたが、ぼくは幼なじみ萌えなんであるが、幼なじみが「長年の想い」を胸に秘めている状況というのはなかなかにフラジャイルなんである。
 彼女たちは張り詰めており、胸がパンクしそうなんであり、この想いをどうにかしたいんであり、いかんともしがたいんである。
 その結果、主人公とくっついたらぼくはその純真さに胸打たれ、駄目だったら余計彼女は壊れもの注意となりカリスマることになるんである。
 このいつきは主人公とくっつきかけるけれども想いを自ら諦めて身を引くんであるが、それは本当は主人公が別の子に想いを寄せていると見抜いたからなんであり、つまりは主人公の幸せを思っての結果なんであり、もはや涙を禁じ得ないくらいにぴゅあらぶな子なんである。
 なら俺が幸せにくぁwせdrftgyふじこlp
 ……壊れもの注意!なんである。

 壊れもの注意な少女は応援したくなってしまう。ぼくが救いの手を伸ばしてあげたくなってしまう。
 一見強そうに見えるが実は脆い少女なだけに、である。
 
 自らの内に「溜め込んで」犠牲になろうとするその精神は、張りつめていてフラジャイルだ。
 そして想いが叶わないほうが、壊れもの注意と感じさせる。
 自分よりも相手を想う気持ち、自己犠牲の気持ち、耐える、内に溜め込む。

 一つ例を。
 クッパに攫われたピーチ姫が、「HELP!HELP!」とマリオに助けを求めずに誰にも迷惑をかけないよう自分を押し殺しクッパに尽くしたならば、それはフラジャイルであり壊れもの注意な少女に近づく。
 はいそこ笑わない。

◎まとめ。(冒頭の引用文だけでも覚えて帰ってね!)

 冒頭述べた通り、ぼくとしてはとにかく「一見強そうに見えるが実はとても脆い、ガラス細工のような少女」という視線だけでも胸に留めて帰って頂けたら、それで満足である。
 より詳細に言えば、自分を押し殺し、何かに耐えていたりすれば一層フラジャイルな存在となる。
 一見、強く凛々しい少女。
 しかし、それは触れればガラス細工のように脆く崩れ去ってしまう強さでしかない。
 張り詰めた心。
 張り詰めた生。
 決定的に彼女達は弱く、儚く、刹那的だ。
 
 何度も言うが、今回ぼくは自分にとってのフラジリティというものを突き詰めて考えてみたに過ぎない 。一応不特定多数の方の目に触れるということを考慮し、かなりわかりやすく纏めてししまった。纏めすぎてしまったきらいがあるかもしれない。
 このような繊細な感覚を言葉で捉えようなどと愚かな行為かもしれないし、捉えきれるものだとも思っていない。今回の記事から零れ落ちている感覚がぼくにとってのフラジリティの大きな要素なのかもしれないし、様々な感覚の総体としてフラジリティというものは感ぜられるものなのだろう。
 正直、自分でも乱暴に過ぎたと思っている。纏めればいいというものでもない。だが、自分としてはこのフラジリティという感覚に強く惹かれるところがあり、これからこの感覚と寄り添っていく上での道しるべとなればよいと思いこの記事を書いた。
 目を閉じ耳を澄まし身体で考える中で、その泉から少しでも自らの感覚を掬い取れるようになれたら、 と思う。

 最後に、言うまでもないことではあるが、もちろんこの感覚だけでぼくの中でキャラの好き嫌いが決まるわけではない。そりゃお気に入りになる可能性は高くなるだろうが、ご承知の通りキャラクターとは様々な要素が複合的に重なり生成されるものであるから、「この要素があるから絶対!」ということになるはずもない。造型であったり性格であったり属性であったり生い立ちであったり様々な要素が絡み合う中でそのキャラが好きになっていく。

 異論、反論あるだろうが、とにかくにもこの記事が少しでもあなたの世界を豊かにできるよう願うばかりである。
 ご静聴ありがとうございました。

 

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)