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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

【小説作法研究1】三人称一人視点編

 以下全て僕が僕の為に書いているようなものです。配慮に欠けるところがあるかもしれませんがそれはそれ、ご了承下さい。
 なお、今後思索が深まっていくにつれ結論も変わっていくかと思いますが、合わせてご了承下さい。

 追申。
 これ全て「わからないから考えている」のであって、絶対に鵜呑みにしないで下さい!!
 僕独特の考え方であったり、単純に間違っていたりすると思いますので、あくまでも参考程度に留めておいて下さい。
 過った影響を与えてしまう事を恐れます。
 まあ鵜呑みにしてしまう人なんていないとは思うんですけれど……。

 三人称一人視点について考える。
 三人称一人視点とは主人公に寄り添い、「彼」とか「○○は」とか名前で呼んだりするものの事である。(ちょう投げやり)

ポールは皿を手に取り駆け出した。途中、コンビニがあったので中に入り店員に投げつけたがキャッチされ投げ返された。顔面を強打し、ポールは気絶した。目が覚めるとそこは南国だった。

 といった具合のものである。

身体の具合が思わしくないというのは、生理期間に入ったということの婉曲な表現だった。彼女はそういう上品で婉曲な表現をする育ち方をしたのだ。ベッドの中の彼女は、とくに上品でもなかったけれど、それはまたべつの問題だ。会えなくて僕もとても残念だ、と天吾は言った。でもまあ、そういうことなら仕方ない。
 著・村上春樹1Q84」(新潮社)から一部抜粋

 僕の例よりこちらで一目瞭然。
 
 「私」という一人称で語るのではなく、語り手が「主人公」を見つめる目をもって寄り添うように物語が進んでいくものを「三人称一人視点」と呼ぶ。
 (何かの本でそう呼んでいたのでそれに倣っている)
 『神視点』とは違い、原則的に主人公の心と見ているものしか描写はできない。
 
 だから一言で言えば「物語外にいる第三者が主人公を追う形で語っている」ものである。 
 物語全て、語り部の口から発せられたものだ。
 だから地の文、台詞、主人公の心情等も、厳密には「その語り部が語っている」ものとなる。
 この大前提は忘れてはならない。

 どのようなリズムで綴っているのか、どのような言葉選びをしているのか、段落の使い方等、文章全てに「語り部」の人間性が現れる事となる。
 語り部とは、いうまでもなく【作者】である。

 (しかし三人称視点には【神視点】という、全てを見透かせる視点も存在し、一人称視点には主人公主観の【一人称視点】も存在している。
 この演出法、それぞれどんな効力を孕みどんな差異があるのだろうか。
 具体的には「語るお話の性質」毎にふさわしい視点というものがあると思う。
 それを掴みたい。
 が、これはとてもむつかしい問題なので思索を熟したい)

 閑話休題
 【地の文、台詞、主人公の心情等も、厳密には「その語り部が語っている」】
 これをより精細に見てこうと思う。

彼女はそういう上品で婉曲な表現をする育ち方をしたのだ。

 ここには「婉曲」という表現を使用したり、「したのだ」とどこか親しみのある語尾を選んだ語り部の人間性が垣間見える。

ベッドの中の彼女は、とくに上品でもなかったけれど、それはまたべつの問題だ。

 ここは一見天吾の胸の内を覗いている格好と見えるが、実は語り部が語り部の視線で「事実」を読者に聞かせている箇所である。
 しかし「とくに上品でもなかったけれど」は、天吾が抱いていた印象と捉えても良い。
 つまり作者の印象は天吾の印象でもある。
 「それはまたべつの問題だ」と言っているのは語り部であるし、天吾でもあるのだ。
 ここに三人称一人視点の特徴がある。
 【地の文、台詞、主人公の心情等も、厳密には「その語り部が語っている」】為に、「語り部の心中」が「主人公の心中」となってしまう場面が多々あるのである。
 語り部と主人公の差がなくなり、渾然一体となってしまう。
 ここは読者も違和感無く「天吾の心中」として読むだろう。
 しかし実際は「語り部の視線(心中)から捕らえた事実」であるのだ。

 語り部が語った事実は、明らかにその「語り部自身」の印象でない限り、主人公の印象と変換される。
 もはや読者は語られている事など、意識しない。
 (「明らかに語り部自身の印象」とは、例えば、「彼女はカモシカの様な見事な足をしていたが、健司はそうは思わなかった。」といった語り部の印象と相反するものを思い浮かべて頂けるとよい)

会えなくて僕もとても残念だ、と天吾は言った。でもまあ、そういうことなら仕方ない。

 ここは先の「とくに上品でもなかった」事実を踏まえての台詞と心情であるが、最後の一文、これが本当の天吾の心情である。
 ──()かっこ──で括ってみるとわかりやすい。明確にかっこで括れる所が主人公の心情を描いた部分となる。
 他の部分は語り部が語り部の目で見た事を説明しているところだ。 
 
 ここは明らかに語り部が天吾の心情を代弁しているところであり、前述のようなややこしさはない。
 が、ここの心情はあくまでもその人物の心中として違和感の無いものであった方が良い。
 何故ならこれはあくまでも語り部が代弁しているものであるので、そっくりそのまま描くと乖離してしまい違和感を持たせてしまう結果ともなりえるからだ。
 地の文と心情部分は地繋がりである。
 一定のリアリティ内に収まっている必要がある。
 つまり、この語り部がこんな言い方をするのは違和感がある、と思われてはいけないという事だ。 

ひ。
才人の手がルイズのネグリジェの中に滑り込んだ瞬間、そんな声が喉から漏れて、ルイズの頭の中は真っ白になってしまった。
メ、メイドがいるのに! メイドがいるのに。めいどがいるのに……、ひ、ひゃん!
著・ヤマグチノボルゼロの使い魔12」(メディアファクトリー

 る、るいずたん(*´∀`*)ハァハァ
 
 ……これには違和感は感じない。作品リアリティが元々こういうものであるからだ。
 しかし、例えばこのゼロの使い魔の語り部がとても「真面目で厳格そうな人」であると想像すると、つまり地の文の語りがもうめちゃくちゃ流麗かつ重厚であったなら、突然ルイズたんのこんな心情が入る事になり、それでは明らかに浮いてしまうと思う。
 この作品でルイズのこれが許されるのは、ヤマグチノボル氏の人間性(語り口)が、それを許容するものであるからだ。
 内包、と言った方が適切なのかもしれない。
 語り口は「世界観(リアリティ)」を作り上げる。
 (若しくはあくまでも乖離させたいのであれば、それは別の効果、語り口自体が笑いに変換されたり、パロディにしたりもできる。また、もっと別の方法で、ある種の人格障害や奇妙な精神を持っているのだなと了承させる事も可能ではある、はずだ)

 主観と客観、と考えるとわかりやすい。
 三人称一人視点は基本的に客観で描き、主人公の心情の部分のみ主人公の主観を描く事となる。(かっこで括れる部分)
 しかし大元の大前提としてそれは「語り部が語っている主人公の心情」なのだから、その語り部が語って違和感のないものでなければならない。
 地の文とはその世界観のリアリティを作り上げるものであり、語られる物語の性質が替わればまた語り口も変わってくるだろう。
 この作品のヤマグチノボル氏の語り口で、本格推理小説を描く事は困難である。
 それはそのような物を描く為の語り口でないのだから当然だ。
 【地の文や台詞から違和感無く続くように見せる】ようにしなければ読者をうまく導く事はできない。
 実際に自分で聴衆に聞かせているつもりで読んでみると結構掴めたりする。

 以上、「これつまり語り部の存在感を消す」という事を意識し考えた事である。
 違和感を持たせてしまえば「語り部を意識させてしまう」。
 「語られている」という意識を持たせてしまう事は、多くの物語で有益ではない。
 しかしまあ「語り部が前面に顔を出してくる」、それを味とし演出をする事も可能ではある。
 (これは話し出すと長くなるので別の機会に譲る)

 要するに、三人称一人視点は客観なのであり、一人称視点とは違い途中に一つレセプターが付いている、という事だ。
 心の中を覗くと言っても、語っているのは覗いている第三者なのであり、語り口によってはそっくりそのまま文にすると浮ついてしまう事もある。
 (語り部の語り口(人間性)がそれを許せば問題ないというのは前述通り)

 地の文、会話、胸中全てひっくるめて「語り部」が語るものであり、すべからく語り部の「人間性」が反映されている。
 そしてそれは物語のリアリティに繋がっている。
 語り部が見た、知った物語を、主人公に寄り添う形で「聞かせてあげている」のが三人称一人視点なのである。
 つまり読者は作品を通して語り部を見ている。
 語りに何か違和感があるな、という時は、読者が抱いていた語り部の印象から逸脱してしまっている表現を使用してしまっている事が多い。
 語り部は黒子に徹するべき、という基本がある事だけは胸の留めておく必要がある。