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がんばっていきまっしょい。

【備忘録】共視論―母子像の心理学

【分析家の仕事として言葉によって営まれるのが、忘れられた過去の再構築という作業である。それは、人生の台本を、過去の物語として読み、紡ぎ出し、語り、語り直すという営みである。過去をやり直すことはできないが、過去を考え直し、語り直すことならできるかもしれない。】
 人は、誰かになれる。(by堀井雄二
 物語の効能なのだろうなぁと思うのだけれど、誰かになれる、ありえたかもしれないと思えるだけで、結構救われたりもすると思う。 
 全てをありのまま受け入れる必要もなく、別に自分の都合の良いように人生を捉えても、創造してもいいんじゃないか、と思う。
 語られる人生が全て真実である必要もなく、むしろ【過去がどう語られるのか】、が重要との事。
 
 【私たちの関心は、喜劇やハッピーエンドの話ではなく、悲劇にある。】
 確かに、悲劇の一種のカタルシスの効能として、自分自身を悲劇の主人公に貶める事によって、自らを対象化し、そこで涙でも流せれば、ある程度すっきりするんじゃないかと思う。自分を主人公とした悲劇のお話を、目の前にいる人物に聞いてもらえる。そのうちに自分の恨めしい過去から解放され、話終えた時には遂に浄化される。涙がぽろぽろこぼれ落ち、人生がリセットされた感覚を得られる。
 これはかなり大袈裟に書いたけれど、精神科とかそういうところっていうのは、ある意味物語で人を癒すところなのだろうなぁ、と河合隼雄先生なんかの本を読んでいても思う。

 浮き世絵(母子が描かれているもの)には父が描かれる事が少ないらしい。
 【父親は絵師や購買者として絵の外にいながら、子どもになりすまして絵のなかに参加し、快感に浸っているのである。】
 エロゲみたいなもんか。いや、ちがうか?エロゲの主人公って、自分なのかな?それともこの絵の中の赤子みたいなもの?僕は赤子かなぁと思うのだけれど、どうなんだろう。
 でもこういう表現って、外国にはなさそうだよね。アメリカとかだと、ありえなさそうな気がする。第三者視点の快楽っていうのか、日本的なんだろうなぁ。
 集団の中での自己、というか、やっぱり個ではなくて全という感じがするかな。
 透明人間的自己規定、その調和、協調。 
 覗き見趣味に近いところもあったのかも。

 【性交は「目交(まぐわい)」と呼ぶ】
 おお、そうなのか。目交わしでまぐわいなのか。こりゃおもろい。精神的なエロティシズムやな。

 【必ずといっていいほどカップルもしくは複数で描かれる枕絵(春画)は、登場人物たちによって何かが共有、共視されている。それは恍惚感そのものである。~中略~ポルノグラフィーすら普遍的な表現方法というものはなく、文化圏によって異なる】
 欧米のそれは、女性の裸体が単独で出ているものが多いそうだ。
 日本はやっぱり関係性の中での性なのだろうなぁ。僕もそうだなぁ。日常の延長としての性でないと、盛り上がれないなぁ。
 欧米は個人主義、というか、ゲームとかでも、銃でゾンビとかガンガン倒していくゲームとか含めて一人称視点のものが多い気がするんだけれど、気のせいかな?

【見ることは、対象と遠隔的・静観的なかかわりをし、直接の操作や変形を加えない。持つ事は、対象に近接し、操作的に自己の領域内に取り入れて変形を加える行為である。】
 ああ、これか。
 日本は確かにこう「愛でる」気がするなぁ。
 撫で撫でして、擦り擦りして、でもあとは見守るというか、むしろ所有できないからこそそそるみたいなとこはあるのかも。
 あわれとか、無常とか、あれは時を愛でてるんだろうし、その諦念の美意識が、日本人の情景なのかも。
 その美しいものに、自らを投影して、大自然の中の生命を感じるところに、日本人の潔さがある気がする。
 やっぱり、自殺者が多いのも、あまり死を怖がらない人種なんだろうな。死を身近に感じてるんだと思う。