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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

殻ノ少女、レビュー。

 もう俺には、冬子しか見えねえ────。

 この作品は京極夏彦「魍魎の箱」をベースとしていると言われている。
 僕は魍魎の箱はアニメをチラ見していたくらいでよく知らないけど確かに似ている。
 でも「オリジナルの二番煎じなのか?」と問われれば「そんな事はない」と答えたい。
 それはこの二つの作品には明確な差異が見受けられるからで、それは「箱」が「殻」になったという一点に集約される。
 これにより作品が「内」というニュアンスと共に「外」というニュアンスを合わせ持つに至った。
 僕はよく知らないが魍魎の箱には「再生」というモチーフはあまりなかったのではないか?
 しかし「殻ノ少女」では、これこそが主題となった。
 
 殻には内と外が内包されている。
 「閉じたもの」、「開かれたもの」その両方が内在する。
 自発的に生命が生まれ出ずるものとしての卵。
 そしてここにこそ、この「殻ノ少女」という作品の肝があり、その象徴として冬子がいる。
 冬子がこの「殻」を象徴しているのであり、それはあの「瑠璃の鳥」の絵が証明している。
 
 殻とは何か? 
 言うまでもなく「偽りに纏っている自分」という意味である。
 つまり「本当の自分で生きられていない状態」を指している。
 作中に登場する多くのキャラは、なんらかの過去の傷により「本当の自分で生きられていない状態」に陥っている。
 これは犯罪者しかりであり、やたらと運命の傷を持っている。
 それを「過去欠損による自己存在の欠如」というわかりやすい設定で具現化したのが冬子であり、では瑠璃の鳥の絵が何を意味しているのかというと、言わずもがな「本当の自分を取り戻した」事を意味している。
 
 冬子は玲人との交流の中で、「世界」を受け入れ「現在」を肯定する事ができた。
 例えそれを冬子が知覚できていなかったとしても、最後まで悩み続けていたとしても、深層心理では「今の自分」を「本当の自分」と見なし、未来に向けて足を踏み出そうとしていた事はこの「瑠璃の鳥」の絵を見ればわかる。
 「過去は過去、ここにいる自分は偽物なんかじゃない」。
 その結論は冬子に新たな生を宿し、再生を促した。
 re:birth。
 偽りという名の殻は破られ、真実の生命が天高く舞い上がった。
 
 その瑠璃の鳥を間宮青年は連れ去ってしまうわけだが、そう考えるとあの「汽車の中、少年に大切な者をあげてしまう」描写、あながち負のイメージばかりでは読み取れないという気になってくる。違和感を覚えてしまうのである。トゥルーED時では、むしろ希望に満ちているのではないだろうか。
 あれは間宮青年の小説「シェオルの殻」のフィナーレなのだろうが、何故に間宮青年は自らの小説の中で大切な「者」を少年に渡してしまったのか。
 あれほど偏執し求めていた「者」を。
 母を求めるという自らの偏執を満たし満足したから? 
 あの少年が母を必要としている事を感じ取ったから? 
 多くのプレーヤーはそこに「パラノイアの連鎖」を読み取ったと思う。
 あれはパラノイアの種を蒔いたのだと。
 しかし僕はあえて言おう。
 間宮青年は少年に「希望」を託したのだ、と。
 
 この「汽車」の一説の中で、母(冬子)が「笑みをたたえている」描写がなされていたと思うが、これは見落としがちだがとても大事な事実だと思う。
 あの「シェオルの殻」という、間宮青年の自伝的、心象世界が描かれた小説の中で、母は笑みをたたえているという記載が成されていた。
 という事はつまり間宮青年は「真実の母」を手に入れたという事を意味している。
 
 比べてみよう。
 BADエンドには間宮青年が「母(冬子)が笑ってくれない」と殺人を犯し続け、遂には自殺にまで至ってしまうといった展開になるものがある。
 しかしこの劇中作の中での母(冬子)は少なくとも笑みをたたえている。
 という事は現実に手にした母も笑みをたたえていたと考えるのが自然だ。
 では何故BADエンドでは笑みをたたえてはくれないのか。
 それは冬子が「瑠璃の鳥」になりきっていないからである。
 冬子が「本当の自分」を取りさずに、その命を失ってしまったからである。
 思い出して欲しい。
 「瑠璃の鳥」になれるのは、かなり細かなフラグ攻略の末であった事を。(細かく言えば、「肉体関係を持ってはいけない(これは超大事)」「絵の具?をプレゼントしないといけない」等)
 トゥルー以外、その死後に「しあわせの笑み」をたたえる事ができないのである。
 「瑠璃の鳥」となった冬子を手にした時こそ、間宮青年は「真の母」に出会う事ができる。
 (ただ一点注意してもらいたいのが、前述通りトゥルーだけでなくBADエンドでも「汽車」描写がなされるという事。ぼくはこちらには「負」の面を読み取り、トゥルーには「正」の面を読み取る。つまりBADとトゥルーでは同じ描写にしても読み取る背景が180度変わる、という事。その理由はまあ制作者側の無自覚にあると思うが、詳しくは後述する)

 真の母とは何か? 
 それは「母の微笑」であり、そこから得られる「自己肯定感」である。
 間宮青年にとって母とは「殻ノ少女」という物質ではなく、精神的な繋がりの意味である。
 だからこそBADで執拗に微笑みを求めたのだし、「まだ完成していない」と焦燥に駆られていた。
 彼は母の微笑みこそを求めていたのであり、その絶対的な包括感を求めていた。
 魂と魂の繋がりを求めていたのである。
     
 これはまず間違いのない事で、彼は幼い頃に母を「失って」しまい、それをによって自らも「失って」しまっている。
 その負の動きによって彼は間宮翁作「殻ノ少女」を見て「殻」に閉じこもってしまったのだし、つまり本来的な意味での自分を損なったまま「自分を取り戻す」という偏執に憑かれてしまった。
 彼の本当の母は、幼い彼を大いに損なわせた。
 その結果、彼は母を殺してしまった。
 そこに現れた「新しい母(冬子の母)」。
 その対比は、彼に必要以上に母を神々しいものとして見させたのだろう。
 しかし結果、その新しい母は「殻ノ少女」にされてしまい、彼の心は完全に壊れる。
 彼はそれを模して殺人を犯し続けるわけだが、それは自らの手で母を創り出す行為に他ならない。
 けれど、求めているのは「真の母」である。
 それは彼の「内」にあるものではなく「外」にしか存在しえない。
 だから結局は紛い物になるしかなく、いくら創っても創っても満足しえない。
 
 僕は思うのだが、彼が「冬子の母」の殻ノ少女を手に入れたところで、それで彼が救われたわけはないのである。
 より殻を強固にし、より深く閉じこもり、自らの世界の中での安寧は手に入れただろうが、「世界を受け入れる」類の救いは手に出来なかっただろう。
 パラノイアの中での安寧、まあ犯罪は犯さなかったのかもしれないが、間宮青年の魂は救済されなかったはずだ。
 それは冬子の母が彼にとって「真の母」ではなく「偽りの母(妄想の産物)」であるからで、比して冬子はといえば彼にとっての「真の母」となり得る。
 何故ならば冬子の微笑は「外」に向けられた、「世界を肯定する微笑」であるからだ。
 そのアルカイックスマイル(太母の微笑)。
 この微笑の前では人は赤子になるしかないのであり、無力になるしかないのであり、全ては洗い流されてしまう。無垢で純真な一人の子供に戻ってしまう。世界を愛し、愛される子供に。
 
 間宮青年が幼い頃に見た、「冬子の母の殻ノ少女」と、トゥルー時の「冬子の殻ノ少女」では、その造型が同じだとしても、そこから受ける印象は全く異なるものになっている。
 これはもう「絶望」と「希望」くらいに違う。
 幼い頃に見た「殻ノ少女」には殻に閉じこもらせられ、成長してから出会った「殻ノ少女」には殻を破らされた。 

 だから僕は間宮青年から憑きものが落ちたというスタンスを取る。
 彼は「偽りの自分(偏執)」という名の殻を破った。
 だって冬子の笑みは生に溢れたものであり、彼の「内」に閉じた妄想の産物などではないのだから。
 
 以上を踏まえると、彼が少年に渡した「者」が、パラノイアを纏った「紛い物の母」ではなく、救いの手としての「真の母」として見受けられてくる。
 だからこそ母を欠如し「包括を求めている少年」に、満たされた子として「君の方が必要みたいだから」と言い、瑠璃の鳥(母)を「プレゼント」したのではないだろうか。
 そうする事で、あの少年が救われるから。
 もはや冬子は間宮青年だけの母ではない。
 全ての子の母なのである。
 その微笑は神の微笑である。
 文字通り「瑠璃の鳥」となった冬子は人々に「幸福」をもたらすのである。
 ここにパラノイアの鎖が紡いだ悲劇は断ち切られた。
 繰り返すがあれは心象世界であり本当に冬子をプレゼントしてしまったわけではない。
 心象世界で手放した意味は大きいだろう。
 別に証左とするわけではないが一応参考までに付しておくと、この物語のキャッチコピーは
 「悲劇だらけの世界の殻を打ち破るのは、少女の微笑みなのかもしれない──。」
 である。
 
 何度も言うがあれは彼の小説の一節なのであり、僕はここから執筆時の間宮青年の心の動きを読み取っている。
 僕が言いたいのはあの小説を執筆しているのは獄中かもしれないし、とてもやさしい気持ちであったかもしれないという事だ。
 負よりも正の魂でもって描かれたものであるかもしれないという事だ。
 トゥルーEDに限っていえば、このように読み取る事もできるし僕はこちらの方が作品のテーマ的には適しているのではないかと思ったという事。

 確か魍魎の箱のラスト(アニメ)は、いつまでもその首に偏執して犯人が持ち歩くといったものだったかと思うが(細部は要確認)、それを下敷きとしたこの物語、しかしそれを手放す事を選んだ。
 それはこの物語には「冬子」という存在がいて、冬子に忠実であるならばそうならざる終えなかったからである。
 そこで負の連鎖が続くことは、冬子の生を否定する事となる。
 冬子は「瑠璃の鳥」となった。
 瑠璃の鳥がメーテルリンクの「青い鳥」のニュアンスと近しいと見るのは、別に妄言ではないはずだ。

 しかし、とはいって制作者側に「深読みしすぎ」と笑われてしまうのかもしれない。なんかあの時のBGMも怖い感じだったし。
 だが制作者が作品の全てをコントロールできるはずなどないのだし、物語の内在律を逸脱した展開にしてしまう事もおうおうにしてあるはずだ。
 別にこれが正しいと言っているのではなく、僕は物語の内在律でいえばこう駆動しているし、「もしかしたら作者は無意識下ではこのようにしたかったのかもしれない」という可能性を読み取ったという事。病跡学に近いだろうか。
 どうだろう、制作者も「ああ、本当はこうしたかったのかも」と少しくらいは思ってくれるのではないだろうか。いや、知らないけど。
 だからといってここに正誤はない。自分の感じた方を選べばいい。
 それが「殻ノ少女」という作品的にもふさわしいだろう。(間宮翁曰く。「作品は観る者に委ねられる」。奇しくもどちらも「殻ノ少女」である)

 ……ごめん、ここまで全部前置きw 
 ここからが本番です。674、少女への愛を語る。
 付いてこられる人だけ付いてきて下さい。

 いやね、んな小難しい事はどうでもいいんですよ。
 僕は未だに冬子の喪失を受け止めきれていないんですよ。
 これだけで僕はこの物語を全肯定ですよ。
 もうやばいんですよ。なにこの得も言われぬ気持ち。間宮青年など知ったこっちゃないわ!
 冬子の死がね、やるせなさすぎるんですよっ!!
 せめて、せめてお別れくらい言わせてくれてもいいのに……。
 あんなに突然の喪失なんて……。
 せっかく本当の自分で生きられるようになったのに。
 せつなすぎる。かわいそすぎる。
 ああ、冬子ぁああああああああああああ…………。
 おおぉお…………。

 僕の中で冬子がカリスマってやばい事になってます。果て青の文乃たんと比肩するカリスマっぷり。萌えまくって死にそうなんですがどうしたらいいでしょうか。
 あうぅ、これが、恋、か……。
 せつなひ。

 僕はあんな美しいEDを今まで見た事がないかもしれない。
 以下、あのラストを謳う。

 あのEDは投げっぱなしなんかではない。
 しっかりと「物語の根幹に根を張ったED」である。
 物語の根幹とは何か。
 それは「現実」である。
 この物語は、「現実」を描いている。
 だからこそ「創られた物語」として幕を降ろす事などできなかった。
 何故ならこれは「現実」であり、現実であるならばこれからも「永遠に続いていく」からである。
 物語は閉じられる事無く、「開かれたまま」終わらなければならなかった。
 その帰結があのEDを産み、今も僕の胸を締め付けてやまないせつなさを産んだ。
 うう、くるちひ。
 
 だからこれは永遠の物語なのであって、それはもちろん僕にとっての「永遠」なのではなく、世界にとっての「永遠」という意味だ。
 物語は続いていくし、続いていってしまう。
 この現実という名の喪失を抱え、それでも僕らは生きていくしかない。

 確かに多くのプレーヤーは、物語が終わりOPのメニュー画面に戻ってきた時、「あれ?」と戸惑った事と思う。
 「なにも解決してないのに終わっちゃったよ」、と。
 そこに否定をみるか肯定を見るか、それは個人の価値観に委ねられるべき問題ではある。
 が、そこに後者を見たならば、この物語の破壊力は凄まじいものとなる。(僕ね)
 そもそも現実とはどうにもならないものじゃないか。

 「痛みを引き受けてもなお前に進まなければならない」。
 陳腐かもしれないが、一言で現すとこうなるのか。
 しかしこれしかパラノイアの特効薬にはなりえないのだし、そしてこんな当たり前に思える事が難しいから悲劇は続いてしまったのだ。

 「探してほしいんだ。本当の、わたしをね」。
 これは冬子の願いであり、ほとんどの登場人物の願いである。
 もちろん玲人の願いでもあり、上述の陳腐な一言に、全て集約されている。 
 どうにもならないけど現実を肯定し、世界を愛するしかないじゃないか。 
 以下、冬子が自分を取り戻すまでの経過を綴る。

 冬子は自分の存在に揺れていた。
 「何者か、何ができるのか、何をしていいのか」、全てが曖昧模糊で、世界に現実感を感じられていなかった。
 「ここは自分の居場所ではないかもしれない」、そんな漠然とした悩みに苛まれ、ぽっかりとした空白を抱えたまま日々を生きていた。
 そんな折、出会うのが主人公の玲人である。
 玲人に自分と同じ匂いを感じ取った冬子は(つまり「喪失」を抱え、ありのままの自分を損なってしまっている者同士)、玲人に「本当の私を捜して」と依頼する。
 それはおそらく戯れに過ぎなかっただろう、いくら探偵とはいえ、報酬もなしの依頼である。
 本気とはいえなかっただろう。
 玲人も片手間程度に引き受ける。
 
 けれど、結果的には、玲人は依頼を果たした事になる。
 玲人との交流を通して冬子は「本当の自分」への孵化を始め、そしてとうとう「殻」を破る事になるからだ。
 実は玲人はこれ以上ないくらいに冬子の依頼を果たしていたといえる。
 そして玲人も、自分を探す事、つまり過去を乗り越える事を促されていた。
 「探してほしいんだ。本当の、わたしをね」。
 それは冬子の願いであり、玲人の願い。
 冬子と出会った事で、玲人も救われていく。
(「G線上の魔王」でも同じような主題を扱っていたと記憶している。悲劇の連鎖。そう考えると玲人は一歩間違えれば魔王になっていたのだろうか。ていうかあの六識がポジション的には魔王か?全ての糸引いてた黒幕だし。ううん、G線の記憶がない……)

 そもそも考えてみて欲しいのだが、この物語の最初と最後で何が変化しただろうか。
 あの瑠璃の鳥に示されるように、冬子の内面? 
 確かにそれもある。
 しかしそれと同時に「玲人の内面」も変化しているじゃないか。
 
【過去に婚約者を殺され、犯人を追おうにも追いようがなくどうすることもできずに過去を引き摺ったまま現在を生きていた物語初めの玲人】
【冬子を攫われゆるやかに殺されて、犯人を追おうにも追いようがなくどうすることもできずにいる物語の終わりの玲人】

 状況的には酷似している。
 けれど、僕らはこの後玲人が以前とは違いその喪失すらも受け入れて生きていくことを感じとっている。
 瑠璃の鳥の絵は冬子の心であり、そして玲人の心であった。
 何故なら玲人にとっても「再生の物語」だったのだから。

 一見玲人は冷静でいるから「冬子の喪失は婚約者の喪失より痛くなかったんだなぁ」と感じてしまうかもしれない。
 しかしそれはピント外れの感想である。
 あの態度こそ誠実であり、あれは全てを受け入れた者の諦念にも似た静けさなのである。(まあ綴子とかはそこまであれだったのかもしれないけど……)
 「玲人と冬子は一心同体だった」。
 この事実を忘れてはならない。
 
 二人は心の深奥で共振している。
 いわば彼らは「半身」として存在していたのであり、だからこそ肉体関係を持つとトゥルーEDに行けなくなってしまうフラグが立てられている。
 このフラグはこの物語の本質をよく現している。
 制作者側に自覚があったかどうかはわからないが、おそらくは物語の内在律を感じ取ってこのようにしたのだろうと思う。
 二人は、依存してはならないのである。
 そしてこれは冬子が懸念していた事でもある。 

 冬子は玲人と「恋愛関係」に陥る事を避けようとしていたし、透子に玲人への想いを問われた時には「あの人はそういうんじゃないじゃないんだよ」と答えていた。
 それは一人で生きられるようにならなければならないからだ。
 そうしなければ現実を生きてなんていけないからだ。
 そうしなければ「本当の自分」なんて手に入れられない。
 その事を冬子はよくわかっていた。
 玲人に惹かれるのは、玲人の過去を敏感に嗅ぎ取り、「偽りの自分を生きている」と見抜き、そして、自分を受け入れてくれるという予感があったからだ。
 しかしそれに溺れるわけにはいかないのである。

 その結果があのラストだ。
 だからこそ、あの投げっぱなしのラストは意味のあるものとなる。
 冬子は世界を愛したし、玲人も既に過去に縛られた存在ではない。
 目が未来に向いているし、喪失を抱えて生きる覚悟ができている。

 愛しい人を殺害した犯人を前にして、撃たない(仇を取らない)で、しかもその事件は犯人が捕まっただけで不明点が多いまま終わる。
 しかし、物語はそう終わってもいいのである。
 それを受け入れる強さを、玲人は身につけているのだから。
 そんな「現実」すらも引き受けて、なんとか生きていこうと、「喪失を喪失のまま抱えて生きられる」諦念にも似た希望を胸に宿しているのだから。

 これは「偽りの自分」を生きざる終えなかった人達の群像劇であり、そこに負の連鎖が生じてしまった事こそが悲劇。
 下手に纏められていたら、とても嘘臭いものになっていたと思う。
 もうほんとこれやばい。
 
 それにしても癒しの物語溢れる昨今、ここまで心を痛めつけてくれる物語もそうそうないだろう。
 微塵も僕らを気持ち良くしてくれない。
 包み込んでくれるのではなく、むしろ僕らを雨風にさらす。
 けれど、現実とはそういうものだし、殺人をモチーフに描かれた作品としては、真摯であるといえる。 
 世界は醜い。
 けれどあの絵で、少しばかし救われる。
 世界を肯定させてくれる。
 だから僕は、あの絵に、青空を見た。
 瑠璃の鳥はばたく、大空を。

 冬子━━━━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━━━━っ!!!!