開店休業

がんばっていきまっしょい。

猫、時を司る神。

 「猫」と「時間」という単語は、相性が良い。「猫時間」などという造語も作れそうだ。
 「犬」と「時間」という単語は、あまり相性が良くない。「犬時間」などと言っても、なんのことやらさっぱりわからない。

 猫は、人に「時間」を感じさせる動物である。
 猫時間、もとい猫時空に入り込む事で、人は忙しない日常の中で癒しを得る。 

 人が猫に感ずる魅力は「時間」という一言に集約される。
 もちろんその愛くるしさなども魅力ではあるが、こちらの方が猫の特質と言える。
 猫は人間が否応なしに飲み込まれてしまう、社会を基軸とした「時間速度」を矯正してくれる。
 耐えきれない程の超速を緩めてくれる。
 猫時空の中では、全てが緩やかに穏やかに流れる。
 そこに日常の喧噪は入り込めないのである。
 私達はその時空の中で、日々の疲れを癒す。
 猫を飼うとは「時間速度を緩める」という意味合いが強い。
 家の中は「ねこ時間」に包まれる。
 
 猫は時間に捕われない。
 自らの体内時間に従い、生きる。
 人にとって猫は「時を司る神様」なのじゃ。
 ふぉっふぉっふぉっ。

 ……猫は「寝子」、である。
 猫の魅力は猫が「よく寝る」事に依る。
 猫は「よく寝る」からこそ人を惹きつけて止まない。
 何故惹きつけて止まないのか。
 私達が寝られないからである。
 猫は「私達の代わりに寝てくれている」のである。

 猫は私達の代わりに寝てくれている、つまり私達は自らの欲望を猫に代行してもらう事により安寧安息を得る。
 その時、我が身を猫に投影している。
 猫がのんびりしている姿を見ている時、私達は少なからず自分がのんびりしているように思い、その姿にこそ癒される。
 「猫の俊敏な動きが堪らないんだよねぇ」などと言う猫愛好家は至極稀だ。
 猫好きは猫の「うにゃーん」とした佇まいが好きなのだ。
 それはその姿が自分の理想であるからだ。
 私達は、猫になりたいのである。
 
 だから猫を撫でるとは、自らの頭を撫でる感覚に近い。
 猫が気持ちよさそうにしているのを見る事が、私にとっても気持ち良いからである。
 猫は愛する「私の分身」なのである。
 猫が幸せそうにあくびしているのを見ると、私も幸せになれるのである。 
 心がじんわりするのである。
 
 基本的に、猫は人間の思い通りになる動物ではない。
 気ままで奔放で腹黒いのが猫である。 
 猫を飼うにしても、猫が人に合わせるのではなく、むしろ人が猫に合わせる。
 猫を飼うとは、猫を「飼い主の思い通りにする」という事ではなく、猫に「幸せな生活を送ってもらう為に世話をする」という感覚に近い。
 飼い主は、猫を思い通りにしようとは思わないし、そうしたくともできないのが猫である。
 
 つまり、一般的な「飼い主が主」で「ペットが従」という関係性ではなく、猫に関して言えば「飼い主が従」で「猫が主」といった転倒した関係性になる。
 私達は猫の良き従者、猫が猫らしく幸せに暮らせる様にサポートする「家人」なのである。
 猫は、家につく。
 その上で、飼い主につく。
 これが猫の本質である。
 
 比して犬はどうか。
 犬の場合は絶対的に飼い主が「主」である。
 
 大の犬好き映画監督・押井守が「政治家は犬を飼え。支配欲を満たしてくれるから」という様な発言をしていた。
 犬は飼い主の忠実な従者である。そこに猫のような転倒の関係性はない。
 
 飼い主は犬に「自分を投影」したりはしない。
 犬は自分ではなく犬だからこそ魅力的なのである。

 犬は猫と違いしつける事ができる。
 古来より犬は狩りや牧羊などに役立ち、人間の良き相棒であった。
 
 しっかりとしつければ基本的に逆らう事はないし、人に合わせ行動を共にしてくれるようになる。
 だからこそ、人命がかかった現場、例えば医療現場や災害現場等でも活躍する。
 「盲導犬」は実用化できても「盲導猫」は無理だと、試みるまでもなくわかるだろう。
 基本的に、素朴で、健気で、誠実なのが犬である。 
 
 人が犬に合わせるのではなく、犬が人に合わせる。(散歩などは生理的な問題なので人が合わせているとは言えない)
 犬に頼られる事は、やすらぎという安寧安息よりも、人に日々向上の糧、活力を与える。

 犬の頭を撫でている時、それは愛しき相棒を撫でているといえる。
 成育結果に充足しているとも言えるし、自分と相棒の絆を愛でているとも言える。
 「お前猫だな」と言われても腹は立たないが、「お前犬だな」と言われると腹が立つ。
 人間を犬とみなす事は侮蔑的ニュアンスを孕むが、それは犬が従者という側面を持つからだろう。
 しかし、忘れてはならない。
 ただの従者ではない。
 相棒なのである。
 そこには絆というかけがえのない、愛が存在する。
 犬は、決して人を裏切らない。
 がしかし、それは、人が絶対に犬を裏切らないという信頼があってこそ、である。

 比して、猫はすーぐ人を裏切る。
 「ねこ時間」にそぐわない事象は、猫にとっては迷惑事でしかない。
 例えば飼い主が「そうしたいから」と猫を膝の上に乗せたとしても、自分からやってきた時でないと猫は露骨に嫌な顔をする。
 まあそれが愛くるしいのだが。
 あうぅ。

 「猫」と「異世界」という単語は、相性が良い。猫はしばしば人を異世界へと誘う。案内人が猫である。
 「犬」と「異世界」という単語は、あまり相性が良くない。犬は現実に根付き、主人を助ける。
 
 猫は私達の手には収まらない。想像の余地がある。
 「一体何を考えてるんだろう」。
 この台詞が似合うのは猫である。
 猫を観ている時、私達は様々な空想を巡らせる。 

 猫の国はどこかにありそうな気がする。犬の国はあまり想像できない。
 これは野良猫が多いからという理由からではなく、家猫であっても、ぼんやり宙を仰いでいる猫を見た時は「人には見えない何かを見ているのかな?」などと思ってしまう。
 猫の佇まいは、俗世間に属しているとは思えない。
 達観しているとも思えるし、何者にも捕われていないとも思える。
 もしかしたら、猫は仏教で言う「涅槃」を体現しているのかもしれない。
 ねこ時間の中では、人にとっての、社会にとっての全ての事象が「ほどけて」しまう。
 どうでもよくなってしまう。
 猫はかみさま、です?
 (そーいえばドラゴンボールのカリン様も猫だ)

 猫が住んでいる世界は、この現実ではなく、薄い皮膜で隔たった「異世界」なのかもしれない。
 猫は、傍若無人ゆえに捕らえ所のない生き物である。 
 
 比して、犬はどうか。
 犬を飼うと、家の中は「現実を生きる力」で満たされる。
 私達は「充足する」というよりもむしろ、より「快活」になる。
 欠けているものが保管されるというよりも、今のステータスを押し上げられるのである。
 癒しの薬ではなく、日々の燃料になる。
 現実に、しっかりと根が張るのである。
 犬は、飼い主の現実を守護し、向上させる。

 幻想の動物と、現実の動物。
 両者とも愛すべきパートナー。
 あなたはどちら派?