開店休業

がんばっていきまっしょい。

雑感、Airを終えて。

 長らく積んでいたAirをやっとクリアしました。といってもメインルートのみですが……。
 奇跡的な作品。本当に凄すぎる。KEYの真似、というか麻枝氏の真似をするのは不可能に近い。例えば美少女ゲームのエポックメイキング的作品「TO HEART」だったら、要素をサンプリングし構成したフォロワーを多数産み出した。つまり潮流を作り出した。
 同じく隆盛初期に圧倒的な存在感を示したKEY作品、しかしそのフォロワーを僕は思い付く事ができない。そもそもフォローしたくともできないし、したとしても失敗してしまう(大成功はしない)というのがKEYの凄さなのだろう。こんなにまでオンリー1な作品群を僕は他に知らない。誰も真似できない。
  
 それは麻枝氏の人生だからだ。この作品群を否定するという事は、とても勇気がいる事だと思う。否定するという事は、麻枝氏の人生を否定するという事に等しく、それはこれらの作品が身体感覚に根ざして作られたものだという事を意味する。
 奇跡的、という言葉を使ったが、何が奇跡的かといえば、麻枝氏の身体感覚と、僕らの身体感覚がシンクロする、という意味で、つまり麻枝氏が美少女ゲーム作りに携わる事になったというその事自体がまさに奇跡的だといえる。
 麻枝氏と僕らは同じ世界に生きている。
 しかし僕らにはその世界を汲み取る事ができない。比して麻枝氏ならばその抜群の詩的感性によって現出させる事ができる。
 だから僕達はKEY作品に触れた時、いわゆる物語の展開的カタルシスに感動したというよりも、僕らの生に根ざした「なにか」に触れられたような感じを受け、感涙する。
 麻枝氏の作りあげた世界は決して虚構ではなく、僕らが今生きている世界に限りなく近い。KEY作品に触れている時、圧倒的なまでに自らの生を肯定されているような感覚を得る。
 まさに美少女ゲームを作る為に産まれて来たようなお人なのだな、麻枝氏は。

 つまりは共感というのが重要なファクターなのだが、この共感はいわゆる物語作法に根ざした「論理的」なものではなく、麻枝氏の感覚に根ざしたもの、そして僕らの感覚に根ざしたものだという事だ。つまりあなたの物語を語ってもらうのではなく、わたしの物語を代弁してもらうという事に近い。彼は自ら世界を作り出すのではなく、むしろ世界をありのまま表出させる技術に特化した詩人、僕らを導く水先案内人だ。
 その為、この世界を論理的に構築する事は不可能に近い。
(Airをプレイしていてふと最終兵器彼女という漫画を思い出したが、通ずるものが多いのかもしれない。まあこの漫画、1巻を流し読んだ事しかないからなんとも言えないんだけど……)
 
 僕は思うのだが、麻枝氏は自らの感性に忠実に作品を作り上げているのみではないだろうか。僕にはKEY作品が受け手の感情を操作するよう設計されているとは思えない。いや、正確にはやはり多少そのような要素もあるだろうが、むしろ麻枝氏が麻枝氏自身を癒す為に作られてきた作品群、という気がする。それに触れる事で僕らは癒される。
 これは間違ってはいないと思う。僕は決してKEYの熱心な読者ではないが、だからだろう、決してKEYを否定する気にはなれないし、否定してはいけないとすら思わされてしまう。

 KEY作品はだから麻枝氏の物語、そして僕らの物語だ。KEYを読み解く時、麻枝氏の物語という視点が不可欠なものとなる。
 僕は麻枝氏の事を何も知らないのだが(インタビューも読んだ事ないし本当に名前しか知らない)、僕にはなんとなく麻枝氏がリトバスで引退を決意した理由がわかる気がする。
 そもそもKEY作品を並べて考えた時、物語のバリエーションが極端に乏しい事に気が付くと思う。
 今回のAirにしたところで、ONEのえいえんのせかいに消えていく時に存在が薄れていくバリエーションだと考えられるし、またカノンでの真琴のバリエーションだともいえる。
 そしてクラナドならばカノンのあゆシナリオに近いだろう。

 つまり、登場人物があがらえない運命に翻弄された結果、奇跡によって助かるか、もしくは助からないかというバリエーションで全てをくくれてしまう。
 何故くくれてしまうのかといえば、その運命が定められたものである為に、もはや作中のキャラクターの力ではどうする事もできないものであるからだ。
 「起きないから奇跡って言うんですよ」
 その通りで、奇跡は外部からもたらされる決定的な力なのである。

 これを麻枝氏は反復する。
 ONEではえいえんのせかいという運命、カノンではこうなんか色んな運命、Airでは翼人の呪いという運命、クラナドでは治しようもない身体の弱さを抱えた妻の死とその子供の死いう運命、智代アフターでは記憶喪失という運命(まあスピンオフだからあまり参考にはならないかもだけど)、リトバスではバス転倒事故の末の死という運命。
 とにかくキャラクターは立ち向かう事など叶わない運命に翻弄され、生き、死ぬ。

 だがここで熱心なKEYファンの方ならお気づきだろう、このように年代別に並べた時、ある事実に気が付く。
 それはリトバスでは運命を決定的に覆した、という事実である。
 それまでと違い、作中人物は外部からの力でなく、自分達の力で運命にあがらい、そして打ち勝った。
 これは本当に大事で、ここに至ったからこそ麻枝氏は筆を置いた、いやむしろ自然と「置いてしまった」のだと思う。(この事については今度書く。たぶん)

 その意味で、これは麻枝氏の懊悩の遍歴でもある。
 僕はリトバスはカノンに近いと思うが、カノンはかなりこの運命を物語上自覚的に操っていると思う。
 だからカノンだけ少し浮いてるなぁという印象を持つが、これはどうなんだろう勘違いかな?

 そもこれら作品の記憶が遠く彼方の為に霞んでおり、あまり下手な事は言えないのだが、つまりKEY作品においては「運命に翻弄される女の子を守る騎士」に主人公はなる。
 それまでひとりぼっちだった女の子、そこに現れた僕。
 けれど女の子は運命に翻弄され、僕はその側にいてあげる事しかできない。
 この「決して僕の力では彼女を救ってあげることはできない」という諦念は、KEY作品の根底に流れるものだと思う。
 これが端的に表れているのがクラナドで、智也は絶望的なまでに無力で、そしてその後は悲嘆に暮れるのみである。
 
 Airでも主人公は力及ばず最後は見守る事しかできなかったし、まあカノンの真琴バリエーションですね。(すいませんONEの記憶が全くない……。今度再プレイしておきます)

 だからクラナドではAirで助けられなかった彼女を、外部、世界とぼくらの想いの力で奇跡を起こし助けた。運命を覆した。Airの一歩先を行った。
 主人公は何もできず、その周囲の人々(ぼくらも)を含めた世界が彼女(そして彼)を救った。
 「It's a wonderful world!」 
 世界に祈った時、彼らは救われる。
 
 KEYの新作「リライト」、おそらく無自覚だろうがこれほどKEYの本質を現したタイトルはないと思う。
 まさにリライトできるかどうか、ここに全てはかかっている。
 この反復を、麻枝氏は10年間延々と繰り返してきたのである。
 その結果のリトバスでのブレイクスルー。
 自らの力で救った。クラナドの先を行った。
 とうとう彼は「女の子を守る騎士」になりきった。
 この事実は、とても重い。