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開店休業

趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

樹木と奇跡について。

 まず、西洋と東洋では「光」にどのようなイメージを持っているのか、という事から考えたい。
 僕の感覚では西洋の光は「頭上から降り注ぐ」。
 反して東洋の光は「地面から鈍く滲みだしてくる」。

 光を神様と読み替えてもいいかもしれません。
 「上」と「下」と単純に考えるとわかりやすいと思うが、いわゆる西洋では神様は天にまします。
 比して東洋の神様は土の中、大地にまします。
 母なる大地が神様です。

 西洋の教会のステンドグラスはまさに光を取り込む為に造形されたものだろうと思いますし、神という「父」は天にいる、という感覚はかなり根幹根付いたものであると思います。
 キリスト像には降り注ぐ光の束が似合います。
 
 比して東洋の、例えば日本のお寺でいえば、仏像を見た時なんかでも、「じわりと滲み出てくるような鈍い灯り」に包まれている方が荘厳な印象を受ける気がします。
 暗闇の中、足下から仄かに照らし出される阿修羅像など、涎出ます。
 東洋の神は、土の中、大地にいるんです。
 そしてそれは「母」なんだと思うんです。

 そもそも西洋の神様は「奇跡」を起こしてくれるのでしょうか? 
 信じる者は救われる、つまりこの現実を生きる精神的な力をくれるのが西洋の神様なのではないのでしょうか。
 全くの無知で今語っているので、失笑を買ってしまうとは思うのですが、奇跡が起きない事を諦念として抱いているからこそ産出されたものではないのでしょうか。
 辛い日々をなんとか乗り切ろうという死への慰めが見受けられる気がします。
 だからこそ、社会に秩序を与える「父性」の神を必要としていたのではないのでしょうか。

 東洋の神は、奇跡を起こしてくれそうな気がします。
 なんだか、僕らの面倒を見てくれそうな気がします。
 「かんなぎ(神の樹)」という素敵漫画なぞ、神様萌えの境地です。
 神様がアイドルに扮して「まだまだ地味☆だね! キッスも地味☆だね!」などと歌ってしまうのです。
 しかもミニスカ貧乳ツンデレという最強属性でです。
 それが冒涜でもなんでもないのです。
 僕らの愛が、そこにはあるのです。
 
 西洋で神様はアイドルになれるでしょうか。
 神様がステージで歌う。
 「今日は、俺のコンサートに来てくれてありがとうマイエンジェル。キラッ☆
 世界ひっくり返りマス。
 冒涜スレスレデス。
 揶揄とか諷刺です。
 
 東洋では神は身近な存在、ていうかそもそも神は意識せずともそこにいるのです。
 僕らはこの大自然を神とみなしている気がします。
 その意味で言えばやはりシャーマニズムアニミズムの精霊崇拝が近いのでしょう。
 日本人に自殺者が多いのは、「そもそも日本人は死を怖れない国民性を持っており、何故死を怖れないのかと言えば、自らも自然の一部であるという精神性故にだ」と語っていた本をどこかで読んだ事がありますが、確かになんというか死は「還る」というニュアンスも孕んでいるような気もします。
 母なる大地に還る、かぁ……。
 そういえばおもしろおかしな幽霊談話もたくさんありますものね。落語とかにも。
 西洋に比べれば「生と死に明確な境界はない」国民性を持っているというのは、その通りだなぁと納得してしまいます。
 
 日本では神は樹に宿ります。樹は大地の象徴です。大地のマナが集中している聖なるお母さんなのです。
 「母なる大地の懐に 我らが人々の 喜びはある」
 僕達の喜びは、天にではなく土にあります。
 だからこそ、人を生き返らせもしてくれるのです。
 それは、大地の根源的な「恵み」の力によってです。
 生の源は、大地に根付いているのです。
 樹木は豊穣の大地から生命を吸い上げ、「再生」を促す。
 僕らを包み込んでくれる太母なのです。
 
 奇跡の光は、天から降り注ぐものでしょうか。
 否、奇跡の光は舞い上がっていくものなのです。
 それは生命の光ででもあるからです。
 僕らを見守ってくれていた母の、ぬくもりであるからです。


 舞い上がった光はどこにゆくのでしょうか。
 空にです。
 空にゆくのです。
 空に消える光。
 それは「この世界に投げかけられた命」の象徴であります。
 樹から、大地から立ち昇る光とは、傷ついた我が子を癒す、母の愛なのれす。
 そして世界(セカイ)は癒されます。
 光に包まれ、再生が果たされる、というわけです。
 それは母なる懐の中、つまり樹木という「太母に抱かれた」、というわけです。

 豊穣の大地、実りは我が子に託されん。
 ああ愛しき我が子。
 (Key作品で悲劇に巻き込まれる少女は、世界の罪を一身に背負うシャーマン的存在なのだろう) 

 なぜ泣きゲーではしばしば樹木が奇跡の象徴として登場するのか。
 それは樹木が僕らの命の象徴であり、つまり母だからです。