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開店休業

趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

時間と身体

○町の循環速度と自分の精神的な速度とが合わなければ人はいらだちます。それが凶悪犯罪と言われるような犯罪が起こる真の理由です。
○その場所の──例えば(中略)東京の速さと自分の精神的な速度が、違うからなんです。(上記二項発言、吉本隆明
○生産と消費の循環の実感速度がずれている。(発言、糸井重里
吉本隆明の声と言葉。~その講演を立ち聞きする74分~」吉本隆明 (著), 糸井重里 (編集) 東京糸井重里事務所

 これはもうその通りで、僕が東京脱出したいのも、まさに時間という問題に集約されるだろう。たぶん。
 とにかく人間主体の時間感覚であり、それは社会に重きを置いた時間感覚であり、ぼくは社会など糞喰らえと思ってしまっているので(父性とは社会を纏った大人が身につけられるものだろう)、とにかくもう息が詰まって詰まってううくるちひ。

 自然が存在しない、という事は、速度が矯正されてしまっているという事と同義だ。自然界の速度、それが生物としての本来的な人間の時間であり、それは当たり前の事だと思うが、そんな当たり前の事が享受できなくなってしまっているからこそ自然は癒しの存在となった。

 なんというか、僕の実感でいえば、自然と接してすばらしいなぁと感じる時、そんな時は目を瞑りたくなってしまう。
 聴覚に神経を集中させ、自らの存在を無に帰し、その空間に溶け込みたくなってしまう。外界をシャットアウトし、スウッと意識を放とうとする。
 雪でも森でも海でも山でも空でも(空の場合、大自然の中で見るもの限定)だが、その循環サイクルは、やはりというか、人から社会という粘ついた澱を取り除いてくれる気がする。
 日常の喧噪から逃れる、というのはありふれた言い方だが、世界の中でのちっぽけな私を実感する事で、根源的な生のサイクルを回復するという事はあるだろう。
 社会を一時忘れる、というよりかは、母なる懐に帰ってきた、と言った方が本質的だろうし、美しいw
 
 やはりこんな雑多な日本、特に東京に住む僕からしてみれば、土着的な自然と共存している町に惹かれる。僕の町には人しかいないのよ。よよよ。
 景観はもちろんだが、やっぱり、自然もとい地球に対する尊敬を忘れてしまったら息苦しいよね、などと思う。
 言っている事は至極真っ当でしょ。

 町や土地毎に絶対的に時間の流れる速度は違うはずで、僕が北に惹かれるのも北に流れる時間速度が肌に馴染むからだ。
 北は過去で南は未来で、北は幻想で南は現実。
 どちらかというと南の方が社会と通じていて、北は個の自分を感じさせられる、ような気がする。

大阪弁の持つ勢いが、そうした積極性をつくりあげているのではなかろうか。全体に西のほうの言葉は強い。東北出身の学生が、「東京に出てきてみて、関東の人間にはまったくコンプレックスを感じなかったが、西の人間にはやられたと思った」と言っていた。ガーッと押してくる強さが西の言葉にはある。
「声に出して読みたい方言 -「方言の湯」に浸かろう」齋藤 孝 草思社

 方言にはその土地の時間が宿っている。その土地特有の時間循環速度が産み出したものといえるだろう。土地の人の体感が幹だ。確かに北の方言の方が、おっとりしている、ような気はする。
 
 理解してもらいやすいように言えば、北は時間が凝縮され、南は時間が放たれる。(余計わかんないか)
 北の方が一人になりやすい、という事はあるだろう。
 南は人と繋がっている。

 稀代の詩人、宮沢賢治の想像力は、北国という土地に依拠したものだと思う。
 北国特有の想像力、というか、北の時間速度もとい空気が育んだもの。
 宮沢賢治の詩や童話を読み、「この人は南国育ちだな」、と思う人は稀ではなかろうか。
 北国描写多いとか置いといてさ。
 
 北の自然は人を無力にする。
 南の自然は人に活力を与える。
 宮沢賢治は世界に祈り繋がろうとした。

わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
「新編宮沢賢治詩集」宮沢 賢治 (著), 天沢 退二郎  新潮社


 いつも嘲笑覚悟で書いているので笑われても構わない。
 宮沢賢治はやはり自然と自分を異なるものとは捉えていなかったと思う。
 それは北国の時間が、南と違い突き刺さるものだからだろう。
 宮沢賢治は絶望的なまでに無力で、しかし無力であるという事こそ詩人にとって最高の資質だ。
 北の時間は世界と繋がらせようとする。
 南の時間は人と繋がせようとする。(社会という意味ではなく)

 北の自然は世界それ自体を愛でるものであり、南の自然は世界の中での人と人との繋がりを愛でるものだ、と思う。
 
 オーストラリアに移住する為に資金を貯めている知人がいるのだが、何故移住したいのかと聞いてみたら「住みやすいし自然多いし開放感があるから」と言っていた。
 バカンスなど、リフレッシュする為に南に行く人は多いだろうと思う。
 老後の余生は退職金で南国、とはよく聞く。

 ぼくの感覚でいえば、北にリフレッシュで旅行に行く人は少ないと思う。(夏の北海道は別。あれは涼みに行くという意味合いも持つ。)
 北の自然には開放感はそんなにない気がする。
 むしろせつなく、そして苦しくなるのではないか。
 胸がキュンとするのではないか。
 思わず涙がこみ上げてくるのではないか。
 北の自然に笑顔は似合わない、気がする。 
    
 南は「ほわぁ~~~」と簡単の溜め息を漏らしたりするだろう。僕がそうだった。なんかこう誰もいない展望台でぽけーっと山とか海とか見てた時、気が付くと頬が緩んでたw 
 北の景観にそう感ずるかなぁと思うと、どちらかというと僕は「息を呑む」とか「息を止める」気がするのだけれど、そんな事ないと言われてしまったら、何も言えないw

 とにもかくにも、土地と身体とは、切っても切り離せない関係で、特産の食べ物を口にするとは、その土地の時間を味わっているとも言えるのかもしれない。
 自らの時間にそぐう土地に住むのは、大事だ。