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がんばっていきまっしょい。

佐藤 友哉「フリッカー式」

 大、興奮。
 僕は偏屈爺さんなので同年代作家の作品を素直に誉めるという事があまりできないのですが、この作品は手放しで誉められる!!(執筆当時19歳!)

 19歳でこれ書いたって、なんとも羨ましい。その年令でこれだけ書けるなんてっていう才能への羨望もあるが、それと共にその年代特有の鬱屈とした負のエネルギーを作品としてしっかり昇華して残せられたっていうのが羨ましい。
 良くも悪くも思春期小説。思春期でしか書き得ない。そんな作品を思春期にしっかり書き残す事ができたという事に嫉妬する。
 
 その意味でこれは佐藤さんのひとつの記録だ。だからフィクションの皮を被った私小説なのであって、純粋に物語を楽しむ作品ではない。どうしても主人公と作者が被る。これは滝本竜彦にも言えることだけれども用意した設計図を「逸脱しなければ気が収まらない」作者が垣間見える。作者は自分を抑えきれずに暴走を始める。そうやって物語は破綻を孕む。なんとか最後まで突っ走るがしかしやはり破綻しているのであって物語はパンクする。(滝本さんはうまく纏めるが佐藤さんはそのまま爆発する)純粋に物語としては見られない。

 けれどそもそも作者も抑えきれない自分を描いているのだから(そこには構築できない自分という諦念があるだろう)その意味で物語が破綻をきたすのは誠実であり切実である。
 作者は展開を選べる立場にいるがしかし選び得ない。事前に構築した設計図通りに書けばフィクションとしての完成度は高まる。が、しかし作者はそれを放棄する。そして己の欲望に従って突き進む。それはフィクション構築としては説得力もなくなりリアリティの瓦解を意味するが、別の次元、作者(作品単体)としてのリアリティは格段に増す。

 書き進めていく中で、設計図通りに書こうとしてもその通りに書く事に反発を覚える自分がいる。ああ、このまま書き進めるなんて駄目だ。俺はこっちに行く。
 逸脱するという事が切実な時、それは大いなるリアリティを孕む。作者の「現実を生きる世界観」が孕まれる。フィクションを犠牲として、現実が挿入される。そしてそれはフィクションとはまた違った達成と感動を孕む。

 物語は「作者の物語」となり、フィクション構成上のリアリティとはまた別のリアリティを孕み出す。
 要は作者が透けて見えるという事だ。フィクションとして考えればマイナスになるとわかっていてもやらざる終えない。その自分を抑えきれない。
 その意味でこれはいかにして物語が物語られなかったかを楽しむ視座を読者に与える。
 作者は暴走している。しかしそれは叫びだ。暴走しなければ書き進める事ができない作者に、僕はこれ以上ない位にシンクロした。それが思春期の自意識ってものでしょう? 自分で自分を抑えきれないのが思春期。自分を抑えきれなくて自意識過剰な自分が嫌いだけれども実は心酔している、みたいな、嬉し恥ずかし我が青春時代、みたいな?(ナニガ) 仄かに漂うナルシシズムの香りが嬉しい。
 必然、主人公にもシンクロした。作者は現実に向かって叫んでいる。「俺は、ここに、いるぞーーーっ」現実を書こうとなんてしていなかったのに現実が介入してしまう。これを文学と呼ばずしてなんと呼ぶ。 

 作者さんは先だって三島由紀夫賞を受賞したらしいが、やはりこの人の資質は文学に依っている。西尾維新さんみたくエンタメの天才ではない。自分を抑えきれないのだから、器から物語ははみ出してしまう。だがそれが面白い。

 作品を面白くないと言う人は、おそらくフィクション的な完成度を求めているのであって、作品・作者と対話をする気はなかったという事だろう。もちろんかなりクセのある物語りだし、合う合わないはあるだろうが、やはりそれ以上にこの物語は壊れているのだから、フィクションを求め読む人は口を半開きにするしかなくなると思う。(主人公にシンクロできちゃえば突っ走れるだろうけど)
 
 とんでもトリックなどは僕はどうでもいい。ミステリー的解決などもどうでもいい。僕のこの持て余す負のエネルギーを受け止めてくれる器として、すばらしく機能してくれた。作者との暴走ランデブーを大いに楽しんだ。
 ああ、これは凄い。嫉妬せざる終えない。ちくしょう。ちくしょう。