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がんばっていきまっしょい。

文学性ってなんだろう。

 文学性とは、哲学をしている作品が孕む、受け手を成長させる作用の事である。
 作者は何かを探求する為に作品を制作し、受け手はその過程を共有する事で新しい発見を得、成長する。つまり、未知のものに向かって掘り進んでいく、その過程にこそ文学性は宿るのであり、作者は自らを成長させる事を欲しており、それによって受け手をも成長させる。これは「文学」と言われる小説表現に限らず、絵画や彫刻や、全ての芸術表現に適応される作用である。文学性とは、世界に対する新たな発見への旅、つまり哲学の過程を共有させてくれる作品が孕む、成長作用の事である。

────各鑑定家の味覚と嗅覚とは、それらの沢山な酒の中から最も品質の醇良な一等酒を選び出すのに、多くはぴったりと一致する、(中略)決してしろうと同士のように、まちまちにはならないそうであります。この事実は何を意味するかと云うのに、感覚の研かれていない人々の間でこそ「うまい」「まずい」は一致しないようでありますが、洗練された感覚を持つ人々の間では、そう感じ方がちがうものではない、即ち感覚と云うものは、一定の錬磨を経た後には、各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている、と云うことであります。
 ~谷崎潤一郎文章読本」より一部抜粋

 『即ち感覚と云うものは、一定の錬磨を経た後には、各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている、と云うことであります』と小説家・谷崎潤一郎は言う。芸術表現に当てはめれば、これが「文学性」という事になる。
 文学性は、ある程度物事の深層を見抜く力を備えていないと感じ取ることは難しい。(もちろん今の私には到底無理だ)しかし、その力を持つ者ならば否応にも感じ取ってしまうものである。そして、それが一つの評価軸となる。
 端的に言えば、そのような眼力を持つ者からは、文学性が孕まれていない作品は薄いものと捉えられてしまう。「面白いが、ただそれだけ」というように、残るものが何もないと取られてしまう。
 では、いわゆるエンターテイメント表現は全否定なのかと言えばそうではなく、どのような表現にも文学性は孕まれるものであるからややこしい。
 哲学とは、「○○について考えた」といように直截的に描かれているものではなく、「○○について考えてしまっている」という方が実際であり、つまり、それは一つの体験であるので、エンターテイメントをしていても、哲学をしている作品は多々ある。エンタメと文学性は両立する。これは誤解なきようお願いしたい。
 文学性を孕んだ作品は必然的に厚みを持ち、ジャンルを超えて万人に訴えかける力を持つ。もちろん嗜好の問題はあるが、それを越え、訴えかける力を持つ開かれたもの、それが文学性を孕んだ作品といえる。触れた者の世界を変貌させうる力を持つ。
 例えばライトノベル(漫画やアニメのリアリティを基盤に描いた作品)を好まない読者が、ライトノベルを読んだ場合でも、その作品が文学性を孕んでいれば、何かしらは得るものがある。孕まれてなければ何も残らない。その作品は純エンタメ表現であったという事だ。
 作者に触れるという体験、作者の人生がもたらした作品と言った方がいいかもしれないが、つまりはその作者だからこそ描かれたという意味であり、私達は、作品を通して作者の哲学を見る。それは一種のこの世界についての思想であり、だからこそ万人に開かれている。世界と関わりのない人間などいないのだから。
 ただ断っておきたいのは、文学性が孕まれているからといって、その作品が他作品よりも優れているなどとは私は思っていない事である。私の信頼している友人は「明確に本物と偽物はある」と言っていたが、未だ私にはそこまでは思えない。嗜好の問題が大きいのではないかという疑問は拭えない。
 あくまでも文学性とは「開かれているもの」というだけであって、開かれているものを望んでいない人々にとっては、それが「ある」か「ない」かは些末な問題でしかないのではないか。純エンタメ表現に、文学性は必要ないかもしれない。ハリウッドに、文学性は必要だろうか? 友人は「エンタメでも本物は文学性は孕む」と言うのだろうか……。 
 この問題はやはり私の中でまだはっきりとした答えは出ていない。ただ、それが「ない」事で入り口を狭めてしまうという事も確かにあるのだろうと思う。これは実感として、そう思う。私の友人に、純エンタメ表現のライトノベルは、届かない。
(注。私はここでライトノベルを例に出したが、哲学者・東浩紀氏はライトノベルを現代の文学と捉えているようだ。東氏は、現代社会の現実感覚を「ゲーム的リアリズム」という独自の概念を用い説明しているが、その提唱に基づけばライトノベルは現代の感覚を如実に反映した鏡となっており、つまり文学であると、そのように言っている。(限りなく自己解釈。原著に当るべし)
 ここで東氏は現実を切り取ったものが文学であると言っているのだろう。確かにその意味ではライトノベルは文学である。まさに「この現実を生きる哲学」を描いた作品と言えるだろうから。
 しかしここではこの主張は敷衍しない事とする。ここで考えているのはもっと広義な意味での文学性であり、時代性やジャンルを超えた普遍的なものとしての文学性である。大仰に言えば、「作品に宿る魂」という意味での文学性である。中身の核について考えているのであり、環境面の事は今は置いておく)

 さて、では文学性を孕む作品とはどのようなもので、どのように成立するものなのだろうか。
 私的な考えによれば、文学性を孕むまでには二つの段階を経なければならない。一段階目は「嘘をつかない事」。そして二段階目は「哲学を行う事」。この二つの条件を満たした時、作者と受け手を新しい世界へと導いてくれる文学性が孕まれる。
 まず1段階目の説明をする。嘘を付かないとは「物語上の嘘」という事ではなく、作品を作る上で「作者が真摯に作品と向き合っているか」という意味での嘘である。フィクション的な物語作法上の嘘の事ではない。あくまでも、作者がその作品に正面から全身全霊でぶちあたっているかという意味での嘘だ。力8分や、既にわかっている答えをなぞるだけの物になってはいないか、そのような意味での嘘だ。何故これが求められるのかは至極明快である。嘘を付いては哲学など行えるはずもないだろう。真摯に真剣に考えられるわけがない。嘘を付いて、深層に迫れるだろうか? そのような作品が世界を描いているなどと、おこがましくて言えるはずもない。
 嘘がないとは作者がその作品の事を愛している証拠でもあり、全身全霊で人生と身体と、そして精神と向き合っているという事でもある。文学性を孕むには、その作品を愛している事が前提条件となる。
 続いて2段階目。答えの見えないもの、見つからないものに、それでもなんとか手を伸ばして触れようとしている作品、そういうものでなければ哲学にならず、人を成長させない。未知のものへと向かうエネルギーといえばいいのか、その「動き」の中にこそ哲学がある。答えだけ聞かされても、得るものは少ない。それよりも、作者と共に世界を歩み、そして知る事、その過程こそがダイナミックに心を揺り動かす。作者にとって作品を作るという行為、それこそが哲学になっている。
 前述したが、これは作者が意識して考えようとしていなくとも、「考えてしまっている」という作品も哲学をしていると言える。自らの事、世界の事、考えようとしなくとも、その深淵に吸い寄せられてしまう。文学性とは、作者が自らをさらけ出す事が前提条件であるから、自然、思索を促される事になりやすい。そのような状態で、機械的にはなれないものだ。 
 
 結論を繰り返す。文学性とは、哲学をしている作品が孕む、受け手を成長させる作用の事である。
 さて、私の主張をより理解して頂く為に「私が思う文学性を孕む作品」のリストを付しておく。参考にして頂けると幸いである。
 が、その過程の中でとても難しい問題に直面した。それは、「日常を描いた作品」の判断である。日常をただ題材にしているのか、それとも題材にせざる終えない何かがあるのか、その見極めがとても難しく、正直私の手には負えなかった。ちびまるこちゃんは文学だと思うが、クレヨンしんちゃんはどうなのか、そこが本当に難しい。ついでに言えば、こんな事を真面目に考えている時の私は本当にかわいかった。萌えてもらってかまわない。
 
 それからもう一つ。あらかじめ予想される反論に答えておきたい。
 私は文学性が孕まれていない作品として純エンタメ表現を上げ、その理由として「哲学をしていないから」と言ったが、その「哲学をしないという事が哲学ではないのか」と反論されたい諸氏の為に補足しておくと、それは哲学ではなく『姿勢』だと私は考える。
 例えば西尾維新という小説家がこれに当ると思うが、西尾氏は速筆であり、作品から現実世界への新しい発見はあまりないが、フィクションとして一作一作のクオリティはとても高く、読者もそれを望んでいる。この場合、その作品作りにおける姿勢に哲学があるようにも見えるが、そこには未知のものへと掘り進む作者の思考の過程が描かれてはいないのではないか。西尾氏は、おそらく地図を作るだろう。一流の設計者であるが、一流の旅人ではない。未知の地平へ視野を切り開いてくれるだろうか? 切り開こうという意志はあるだろうか? 
 しかし何度も言うが、選択の問題であり、私はそれが駄目だとは言っていない。それでもいいのである。エンタメ表現であるならば、それは至極正しい姿勢であり、読者の期待に答える一級の創作家である。大いに満足できる・させられるという事も一つの形だ。文学性を孕んでいる作品の方が良いなどと、私は言っていない。答えは出ていないと前述したはずだ。西尾氏にしても、自らその創作スタイルを選んだのだろう。姿勢なのであるから、各々の自由だ。
 ただ、一点、しかしながら付け加えるに、外部には届きにくい、それはおそらく事実だ。(余談だが、私は西尾氏を生粋のライトノベル作家と見ている。このように書くとファンの文学信奉者は嫌な気持ちになるのかも知れないが、私は何の感情も込めずにこう書いている。全てに同価値を置きたいから)

 では付録として作品リストを。
 正直、判別は手触りによっており、あくまでにぎやかしであるのであまり真に受けないように。(このブログの閲覧者層を想定して思いつくままに作品を挙げる)
 
*「ある」「なし」判別
 
田中ロミオ       ある(神樹の館・おたくま・衰退・AURA以外)
瀬戸口廉也       ある(キラキラ未プレイなのでそれ以外)
奈須きのこ       なし
西尾維新        なし
乙一          なし
滝本竜彦        ある   
○KEY         ある(AIR未プレイ。カノン以外?)
富樫義博        ある(幽白終盤、ハンターアリ編以降) 
あだち充        ある
○ちびまるこちゃん    ある
クレヨンしんちゃん   なし
サザエさん       ある
マブラヴ        ある
○丸戸作品        なし
西森博之        ある
鳥山明         なし
○コード・ギアス     ある
精霊の守り人      なし
宮崎駿作品       ある
ひぐらしのなく頃に   なし
らき☆すた       なし
school days     なす
涼宮ハルヒの憂鬱    なし
ゼロの使い魔      ある
エヴァンゲリオン    ある
マクロス銀河の妖精) なし  

 思いついたのがこれくらいだたにゃーん。
 にゃーん。
 にゃおーん。