開店休業

趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

CROSS†CHANNEL、レビュー。

 もはや語り尽くされてしまった感のあるこの作品、僕にしてみても今更何か新しい事を言えるとも思えなく敬遠していたのですが、まあいいやぁと思ったので書いてみます。

 
 僕はこの作品の主人公が大好きです。シンクロしまくりんぐでした。なんで好きかって言ったら一生懸命だからです。一生懸命なくせにうまくいかないからです。やるせない男やのぅ。僕だけは応援したくなるじゃないですか。

 その一生懸命ぶりが出ていたのが随所に挿入されている下ネタですね。彼はエロで身を包んで、なんとかかんとか理性を保とうとしているんすね。わお、せつなひ。
 彼はエロで身を包まないと日常生活を送る事が困難で、だから自らをそのように無理矢理キャラクター付けている。これはこの物語に触れていると感覚として感ずるものじゃないでせうか?  
 だって彼、落差激しすぎますもん。明らかに仮面被ってますもん。それ序盤から感じますもん。
 
 だからその下ネタは笑いを取るようなものでもあるけれども、実はものすごく切実で一生懸命、悲しい下ネタで、彼が本当の自分で生きれてないという事の証なのだから、おごそかですらあると思えました。おごそかな下ネタ。すごひ。
 彼の人格それ自体がなんとかかんとか日常を生きていく為のものであって、だからその裏にはすべからく悲壮感が漂っていて、コメディになればなるほど静謐さすら醸し出す奇跡。ロミオさん、やるぅ。

 あとそれに関連して言えば、霧ちんとのえっちの時に彼が「俺はお前に暴力をふるいたくはないからこういう事をしている」とかなんとか言っている場面があって、そのセックス描写もといエロもかなりせっぱつまったエロで、江川卓
 それはつまりは彼なりの精一杯の思いやりなわけで、あうぅ、男としてわかるぜその気持ちぃ、みたいになったりしちゃったり。一応、無理矢理解釈すれば合意とも取れるセックスでしたし、あれなら霧ちんの心にも直截的な暴力よりかは心に傷が残らない(だろう)し、彼、一生懸命相手を慮っているじゃないすか。頑張ってますねー。
 性が彼にとって、自らを抑制するための装置になっているです。

 ただ、同時に、やっぱりこの性が彼のよるべになってしまっているのは疑いないところであり、彼は性に自らを浸す事で自らの救済としている面も明らかにあるわけです。
 下ネタが現実のよるべとなっている事は前述しましたが、その他セックス描写もそうで、彼がセックスを求めるのはそれが防波堤になっているからで、セックスで堰き止めておけばやはり暴力までいかないからです。ガス抜き的要素が強くあって、彼がセックス中でさえも理性を失わないのは(妙に笑いをとってきたりする)夢中になっていないからで、言ってしまえば健全な意味での性欲は彼から損なわれています。物語後半になれば、切実なセックスも展開されるようになり、みきみきとのそれは明らかに他と一線を画すようなものだったと記憶していますが、それは愛情を感じているセックスだからで、物語の変調がそこに読み取れます。物語終盤なんで、彼の変化の兆しがそこには見れますた。

 大元の前提として、彼はあの陰惨たる事件のせいで心を壊しているのであって、健全に人と関わる事ができない。つまり人としっかりと向き合って生きていく事ができない。だからその性も「愛し愛されるもの」になりえるはずもなく(最初からなりえていたらこの物語の存在意義がなくなる)、その性が一種嫌悪感すら誘う、人として共感できないものであるのは必然でもあったのです。
 なぜなら彼は健全でないからです(僕はこの言葉が嫌いですが仕方なく使います)。それが物語の発端だからです。下ネタ含む、彼のあらゆるオーバーな笑いとスラップスティック的な言動行動は、だからそれに移入的には共感できないように作られていて(第三者的にはOK)、それは彼の心が壊れているからで、私達は健全だからで、でもその共感できない事が逆に僕に共感を呼んだというのは前述通りです。
 
 事件後、彼は曜子ちゃんとの放蕩生活に明け暮れていたようですが、もはや彼は性に対して不感症になっているともいえ、彼にとって性とは絶望を伴う隠れ家に過ぎなくなってしまってしまっていました。性って、もちろん肉欲もあると思うんですが、その肉欲にしたって、根幹には人と触れ合いたいっていう健全な欲求がまずあるものだと思いますし(究極的に人に関心がなくなれば性欲はなくなると思う。男なら射精欲は残るのかもしれないけれど)、それを感じられなくなったのですから、彼が人を人として見れなくなってしまった事を意味しています。
 なので、このゲームのED後、彼はやっと健全な意味で「性欲」を感じられるようになるのかもしれません。 
 世界に誰もいなくなってから……。

 とにかくむなしいんですよ。とても。太一の大袈裟な笑いや下ネタが。
 皆様が頷いてくださるかどうかはわかりませんが。

 クロスチャンネル。チャンネルの交差。とにかく人が関わり合うところに何かが産まれる。関わり合いたくても関わり合えない者達の群像激。
  
 物語終盤、一人だった太一は母に出会いました。彼は母に抱きしめられる事によって、存在を許されました。そして自らを犠牲にして、皆を元の世界に帰しました。
 けれどそれは英雄的行為などではありません。彼は見返りを求めているからです。
 
 彼は皆を帰還させる前に、一人ずつと思い出作りをしました。
 それは美しい思い出で、彼はなんとかそれを手に入れたかった。それを胸に抱いてこれから生きていきたかったからです。
 その為にまあちゃっかりエッチまでしたりしちゃったり。一方的な善意の押しつけでなく、彼はあくまでも等価交換的に触れ合うという事をしました。
 彼にとって閉塞空間とは天国ではありません。地獄です。人と接する事を熱望しているんですから、自分一人では生きている意味がありません。
 そんな地獄を生き抜く糧が欲しかった。
 反対に曜子ちゃんは太一と二人、あの閉塞世界を生きる事を熱望しましたね。彼女にとってはそれが安寧、やさしい世界なんでした。

 彼の自己犠牲によって皆が救われる英雄端的に読まれてしまいがちなこの物語、とんでもない、彼は英雄ではなくて、最後まで対等な「人間」でいたかったんです。
 英雄譚であるならば、皆を帰した後に世界に飲み込まれて死ぬ場面まで描けばいい。でもロミオ氏はそれをしなかった。それは彼の行動をヒロイズムとして安易に見て欲しくなかったからだと思います。彼は最後までみっともなく生を全うしようとします。世界に一人でも、絶対に自殺だけはしないよう心に決めます。そして「人とつながりたい」という希望を胸に放送を始める。遮二無二なって人を求め続けます。その姿はスマートなんかでは全然なく、決して格好良くなんてないはずです。でも、だからこそ僕達の胸を打つ。
 
 彼は最後の最後で、やっと人と人との触れ合いを果たしたんです。等価交換、それは相手を対等の立場として見ているという意味でもあります。それまでの彼は実の所、相手を慮る事しかできていなく、自らのわがままを相手にぶつけるという事ができていませんでした。冬子にしても曜子にしても、距離を取るという行為が彼女達の為であった事は疑いないところですし、先輩……の記憶がないのでスルーしますが、霧ちんにしても彼女に接近するという事はその極端な他者に対しての繊細性を薄める為でしたし、終盤になって病が発覚したみきみきに対しては自らの信念を貫く事でみきみきを感化させ、みきみきは太一につられて自己愛をかなぐり捨てました。
 このゲームをプレイしたのが相当前なので細部まで思い出せないのですが、こんな具合に、よく見てみると実は太一の行動は一貫して人の為になっていたと思います。そこに「自己」はあまりなかったように思います。なんとか皆を健常にしようとしていたと思います。(それが途中で破綻をきたす事が多いのが、また悲痛なんですが)

 その究極の形が最後の「帰還」です。彼は皆を「現実世界に戻した」という意味での救済のみならず、それよりもむしろ彼女達を「現実に適応させる」為の救済を行ったというのがあのシーンです。彼は彼女達を救ったのです。事実、霧なんかは帰還後に健常者の学校に転校する事になりましたし、曜子ちゃんだって人と関わり合って一人現実をしっかり生きています。その他の娘達も、これから「良くなっていくな」という予感を与えていたと思います。
 言わずもがな、これは太一が身を張ったおかげです。
 あんな思い出植え付けられちゃったら、感応されちゃいますよね。太一の心意気に。
 彼は皆のよるべとなりました。 

 でもそれは無償の愛ではありません。
 彼は自分の為に見返りを求めており、そこには対等の関係性があり、それこそが僕は本当のふれあいだと思います。
 だからややもすると太一を犠牲にした事がトラウマちっくになってもしまうかもしれないその状況を、彼は容認しましたし、そこにある種の自己欲求を感じます。
 
 対等でないという事はどういう事でしょうか? 
 傷つけあえないという事です。
 傷つけあえるから人は他者であり未開です。
 自らの延長ではない。
 だから太一は傷つけあえる関係を求め続けた。
 そして最後の最後にそれは達成された。
 これ以上ないほどに「傷つけられた」彼女達、しかしその傷はやさしく、愛に溢れた傷で、彼女達は傷つけられた事で癒えていく。
 他者とは、相手を尊重しなければ存在し得ません。
 尊重しなければ、全てが自らの延長になってしまうからです。
 相手を想像する事のないふれあいは、結局の所相手を見ていなく、自分を見ています。
 これから彼女達は否応にも「太一」という傷に行き当たる事によって、相手を尊重する事ができるようになるのではないでしょうか。
 そして、自らと同じ「対等な人間」として、人と接する事ができるようになるのではないでしょうか。
 太一が絶対的な「他者」として、いつまでも胸に生き続ける事になるから……。 

 太一、彼は心を病んでいましたが、考えてみればこれほど健全な人間がいるでしょうか。
 僕達は彼ほど他者に対して思いを馳せる事ができているでしょうか。
 つながりたいと思っているでしょうか。
 閉塞を選ぶのならばそれで一向に構わない。
 僕もまあこっちに傾きがちな人間。
 それを悪い事とも思わない。
 けれども「人がいて自分がいる」というのも一つの真理。
 人間になりたいと彼は願った。
 そんな願いに嘘はなく、どこまでも透き通っていて、美しかったです。