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がんばっていきまっしょい。

美少女ゲーム、性描写があるとないとではどう違うか。その2。

(その1がこのブログのどこかにあります)

 

 結局「エロゲにエロは要らない」って言う人たちって、エロゲという枠組みの中で、エロが邪魔という感情論を語っているに過ぎないんですよね。エロは要らないと言っておきながら、エロゲという枠組みをぶっ壊そうとはしていない。それがヌルいなあ、と思うわけです。

 そもそもネットを見ていても、「エロゲにエロは要らない」説を擁護している人は「そう思うのは分かる」と言っているだけのような気が。エロゲからエロを無くせという具体的な主張をしている人は見てないです。
 結局この問題って、議論にすらなってないんですよね。

 ちなみに、恋愛エロゲにエロが必要かどうかについては、自分は必要だと思っています。というか、もともとあるものを削る必然性がない。無いよりはあったほうが得した気分になるでしょう? それだけの話です。

サイト「Half Moon Diary」 記事「エロゲにエロは要らない」という人たちのヌルさより一部転載

本当にそれだけの話なのか、というのを考えたのが本記事となります。
「エロゲにエロはいるのか?」というのは盛んに議論されている事であって、諸兄どなた様も一言ある事と思います。
例に漏れず僕もそうです。

で、僕の意見を言わせて頂ければ、
【エロゲにエロはあった方がいい。「エロ」ゲームなんだから。でも美少女ゲームにはエロいらないです。欲しくない】
って感じです。
エロゲはエロあっていい。でも美少女ゲームにエロ欲しくない。
つまりエロゲとギャルゲーは似て非なるものだと思っています。
性質が異なるのです。
その理由を述べます。

僕は3年くらい前まで、結構な期間コンシューマーで美少女ゲームを嗜んできまして、プレイするのはもっぱらコンシューマー完全新作でした。
ですが、コンシューマーでめぼしいゲームを大体プレイしてしまい、この先コンシューマーで新作も出なさそうだという事で、泣く泣く?18禁にも手を出し始めました。
そういう経緯を持っています。
PS2移植版「家族計画」をプレイして、このライターさんのゲームをもっとプレイしたい!と思い手を出してみたのが直接的なきっかけですが)

なぜ同じ美少女ゲームなのに18禁をプレイする事に抵抗があったかというと、「エロなんていらない!」と感覚的に思っていたからです。
そう、感覚的に。
そして18をプレイしだして随分経った今考えるに、その感覚は至極正しいものであったなと感じています。
その理由は、
「18禁にもすばらしいゲームはたくさんある。
感動して涙を流したゲームや興奮に打ち震えたゲームはたくさんある。
しかし、【萌えられた】ゲームはほとんどないから」です。

そしてこれは美少女ゲームに「エロはいらない」と言っている方々に少なからず共通する事由なのではないかと思っています。

僕は一時期PS2で発売された「双恋」というゲームにどハマリして、もう萌え狂って死にそうになった事があるのですが(いい思い出です)、例えば僕は、その双恋が18禁で発売されていたらあんなに「萌え」られたかなぁと考えると甚だ疑問です。
といいいますか、おそらく萌えは半減していた事と思います。

これは同じく僕がコンシューマーでどハマリした「メモオフ」や「北へ」にも言える事でして、断言してもいいですが、僕はこれらのゲームにエロがなかったからこそ人生変わる程に(まさに)萌えたり感動する事ができたのであり、つまるところ「移入」する事ができたのです。

何が言いたいのかといいますと、僕たち「エロいらん派」がキャラクターに求めているもの、それは「何者にも犯されていない神聖さ」なのではないかという事です。少なくとも僕はそうです。
そしてこれが僕にとって「萌え」る為の重要なファクターになっています。
彼女達はあくまでも偶像であり天使であり、人間ではないのです。
だからこそ僕は彼女達にどっぷりと浸かり込む事ができるのです。

これは例えばメモオフのような現実味溢れる物語でも同じ事で、キスまでしかしてはならないのです。
キスで終わるからこそ神聖であり憧れるのです。
それ以上してしまうと彼女達は「人間」になってしまい、なんというか、どうしても下心が顔を出してしまって神聖さは失われます。憧れるにしても性を伴って憧れてしまいます。

これは僕が「プラトニック・ラヴ」フェチだからそう思う、というわけではありません。
そんなものは理由の一側面にしかすぎません。

一例を挙げます。
例えば昔、「お茶の間」というドラマ(原作漫画)の中で、恋人に対して神聖さを見出してしまっている主人公が、その恋人がトイレに入っている所に遭遇し、トイレのドアをドンドン叩きながら「俺の○○ちゃんはトイレになんか入らない!お前は何者だ!?」と怒鳴っている場面がありました。
(超うろぼおえ記憶なので、細部は異なるはずですが)
この主人公は恋人を崇拝的に崇めているというか、幻想としているわけで、そこに現実は介入していません。

言うなればこんな感じです。
エロシーンとは、彼女達を天使から「生身の人間」に堕してしまう装置でもあるという事を忘れて欲しくありません。
これを忘れられては困ります!

山口百恵よろしく、アイドル引退時には「普通の女の子に戻ります」とか言ったり言われたりしますが、キャラクターも同じで、普通の女の子、それも僕達ユーザーの欲望を背負わされた女の子になってしまうという事です。
少なくとも、どうしても僕にはそう見えてしまいます。

エロシーンなんて、男の欲望の為にあるようなものです。(それが本来の意図はわけですし)
だから、そんな使命を背負わされた彼女達は、言葉は悪いのですが、さながら「愛玩少女」なわけです。
そこには神聖さのかけらもありません。
キャラクターが欲望の産物であるとしても、それは突出しています。
(わかりやすくお伝えする為にこのような表現を使用しています。怒らないで下さいね)

山口百恵も出した事ですし【アイドル】で考えてみますが(近しいものだと思っていますし)、その昔、アイドルというのは「プライベートを見せてはならない」という事が鉄則になっていたそうです。
そんな話、テレビなどでもよく聞きますよね。
つまりファンに「想像(妄想)」させるという事が、とてつもなく大きな魅力になっていたわけです。

どこまでいっても手に入らない。
私生活もわからない。
そこは穴だらけです。
そしてその穴を埋めるのはファンです。
その穴を埋めても埋めても近づけないがゆえに、そのアイドルは神聖なものへと昇華されていくわけです。
(詳しくないのでわかりませんが、モーニング娘。はそれを「身近な女の子アイドル」で売り出したからこそ革命的だったのだといえるのかもしれません。先駆はおにゃんこ?)

キャラクターも同じようなものです。
想像させるからこそ、ハマって萌える。
18禁の少女には「想像の余地」があまりないように思えます。

男にとって女性に対する神聖さとは、その大部分が「性」であるといえるはずです。
それが開陳されていないからこそ想像の余地があるというものです。
だからこそ物語が終わってからも僕の中に生き続ける「永遠の恋人」になってくれるわけです。

一言で言ってしまえば、「性という一番の神秘がさらけ出されてしまうと、もうその人に深みはなくなってしまい、というか攻略完了的に手に入れた気になってしまい、想像しなくなってしまう」と、そういう事です。それは無意識的にでもそうなってしまいます。
(僕が冷たいからだとか言わないで下さい……)

よく恋愛漫画で、想い叶った後にしかしまだ漫画が続くとなると、「恋が成就してしまった後なんてなんの面白味もないじゃないか」と非難されたりしますが、これに似ているのかもしれません。
もはや彼女は手に入ってしまったので、ドキドキが続かないのでず。

「アイドルから普通の女の子、しかも愛玩少女に堕してしまった……。移入むずいぞ」っていうのが僕の本音です。
というかエロゲの場合、プレイ始めた時点でそうなるとわかっている為、最初から「愛玩少女」と、冷めた目でキャラを見てしまうのは否めないのです……。
なにか距離を取ってしまう……。ううん……。

詰まるところエロゲの女の子達って犬的なんですよね。
従順なんです。僕らの言うことをよく聞いてくれます。
もうめちゃくちゃに僕らを喜ばしてくれたり、僕らをたっぷりと充足させてくれます。
それがかわいいんで、それが大変な魅力になっています。

それで、コンシューマーの女の子達はどちらかというと猫的なんですね。
猫をお飼いになられている方ならわかっていただけると思いますが、猫って犬とは違い、どうしたって100%飼い主の思い通りにはならない動物です。
抱こうとすると嫌がられ、名前を呼んでも知らんぷり。こんな事がままあります。
しつけるなんてとんでもないです。お手とかフリスビーとか無理です。
気ままなのが猫であり、気ままだからこそ猫であり、それが最大の魅力になっています。

言えばそこには手に入らないが故の「神聖さ」があります。
この神聖さとは「幻想」と言替えてもいいかもしれませんが、猫を見ていると色々と想像するのは僕だけではないはずです。
上記アイドル例と繋がってきますが、想像するから移入する。
そうなのです、猫の飼い主は猫に移入するのです。
これは猫愛好家の皆様には支持して頂ける意見ではないでしょうか。
飼い主は猫の姿をぼうっと見て、微笑むものです。
猫にはいわく言い難い「想像させる力」があります。

もしかしたら、だからこそ古い言い伝えの猫の妖怪とか奇跡とか多いのかもしれませんね。
不思議な力を持っているという幻想を与えるのが猫。
化け猫とかいいますもんね。人の想像力を刺激するものがあるらしい。
犬にはあまりこういうのないですね。
(そして僕はこの「想像する」の延長として飼い主が「猫になりたい」という欲望を無意識的に投影するところに猫の最大の魅力があるのではないかと考えているのですが、それはまた別の話。いつか記事にするかもです)

閑話休題
ええと、僕が言いたいのは
【「エロいらん派」の人にとって、萌えの本質とは「聖さ」、つまり聖母的なものにあるのであり、そこに「エロいる派」の人々との相違がある】という事です。
聖母マリアだって、やっぱり聖なるものだから「処女懐胎」って言われてます。崇める為には性を見てはならないのです)

処女性というものはやはり大事であり、何者にも犯されていない「神聖なる恋愛」であるから頭までどっぷりと移入できるのです。
僕らの分身である主人公、つまりプレーヤーにすら犯されてはなりません。
僕ら「エロいらん派」にとって、彼女達は手が届きそうで、実は永久に手の届かない存在としてあるからです。
だから様々な空想を巡らせ、彼女達は耐えず僕らに寄り添ってくれます。

更に本筋から外れるのを承知でいえば、彼女達のエロシーンを見るという事は、それは僕らの暴力を見るという事と同意でもあり、そこには見ないふりをしているだけで確固として存在している僕らの欲望が渦巻いています。
そしてその欲望を叩き付けた上で、さらには感動までしようとしている僕らの「やましさ」に、僕は心地悪くなってしまったりもします。(始めからエロ重視作品なら割り切って楽しめますけれど)

あくまでも似て非なるもの。これを忘れて欲しくない。
萌えの性質辞自体も異なってくるわけです。

だから要は「憧れ」の問題かと思われます。
エロありの「人間味溢れる恋愛」だと、それはやはりエロゲという媒体とも相まって欲望が全面に出過ぎてしまい、そのキャラや物語の神聖さがなくなってしまうですね。
青年漫画誌みたいなものですか。
でもだからこそ、そんな物語を求める人もいるんですよね。

逆にエロなしであるならば、幻想的でありそこには多分に自らの入り込む余地があります。
僕は僕が補完する事で、いつまでも物語の主人公でいられるこちらの方が萌えられます。
少年誌とか少女漫画誌みたいなものですかね。
思春期の健全な空想、みたいな。
僕は「りぼん」が好きなんですよ、ええ。

…………しゅーりょー!
はひぃ、長々とお付き合い下さいましてありがとうございました。
異論反論あると思います。
「それでも俺は萌えたぞゴラァ!」という方ももちろんいらっしゃると思います。
ですけれど、この記事は、あくまでも僕が18禁をプレイした時に感じる違和感を掘り下げてみて、なんとか言語化してみようと思い書いたものであるので、だいぶん極端な書き方になってしまっています。
人間の心なんてもっとぐねぐねうにょうにょしたものであると思いますので、この一方向だけでまとめてしまった記事に反論なりなんなりをお持ちになられるのは至極当然の事だと思います。
それをふまえてお目こぼしのほど、ひとつ、お願いします。

ひとつご理解頂きたいのは、こんな事言ってますが、僕がエロゲ嫌いなどという事はあるはずもなく、「エロエロばっちこーい!」「エロってなんぼの人生じゃ!」と今やエロゲ三昧であると、そういう事ですね。はふぅ。

最後に。
なので、エロシーンがある18禁の方が深くはなると思います。
君が望む永遠」なんて、あれはおそらく18禁だからこその名作なのでしょう。
エロがあるから心が痛くなる。グサリと刺さる。「お前エロったのに別れるなよ!」ってなもんです。
あれをコンシューマーでプレイしても面白みは半減だと思います。

物語を掘り下げたり、キャラを掘り下げたり、ヒューマンドラマを描くのなら18禁でやるべきでしょうね。
そう考えると、いわゆる「僕らの幻想世界」を描き続けているKEYが全年齢に移行した意味もわかりますね。
現実ではなく幻想を描くのが売りであり、それを自覚しているからですね。