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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

考察、最果てのイマ。

僕にとって一生もののゲームです。
こんなぶっとんだ美少女ゲームをもっとプレイしたいぜぃ。

それでは、このゲームのタイトルに込められた意味を紐解いていく事からその深層を探っていきたいと思います。
そんなにこのゲームのレビューを見て回ったというわけではないので、既出かもしれないのですが大切な事を言わせていただきます。

これ、
最果てのイマ」=(イコール)「プレイヤー」って意味です。
最果ての「今」。

ゲームの最果てに存在するプレイヤーを表現したすばらしいタイトルです。
で、これこそがこのゲームの主題となっています。

簡潔にいって、このゲームの構造は「先人がクリアした物語のログを、僕達が眺める」というものになっています。
これ先人は「イマ」たんなわけですが、要するに、イマたんが攻略した物語を見ているわけなのです、僕達は。
このゲーム自体がインターネットのサイト的存在として設定されており、僕達はそこにアクセスして、クリックして、物語を再現して楽しむという設定です。
だから「あなたは○○人目のお客様ですよ」とか冒頭に出てきたり、チャプター設定とかがあるわけですよね。
ゲーム自体が全てそのようにデザインされています。
さらには地の文すらも全てイマたんが書いたという設定であり、まさに僕達は「座して物語を楽しむ」事しかできません。

その為にこの物語、最初から「全て終わって」います。
つまり、もう僕達がゲームを開始した時点で、全て過ぎ去った事なわけです。
普通はこれから幕が上がるのですが、このゲームではもう終幕した後なのです。

何一つ、プレイヤーの僕達が物語を動かす事ができません。
何一つ、悲しい出来事を回避できません。
僕達はただ、見るエピソードの順番を選ぶ事が出来るだけです。
ここまでプレイヤーを無力にするゲームはそうそうないですね。

簡潔に言ってしまうと、つまりは【「イマ」たん=プレイヤー】なわけです。
(これは僕達「最果てのイマ」をプレイしているプレイヤーという意味ではなく、一般的にノベルゲームをプレイしている時の広義のプレイヤーという意味です)

証左をあげてみましょう。
たしかエピローグだったかと思いますが、忍の頭の中にはガン細胞があって、でもそのガン細胞があったから世界は救われたのだ、「実は私達の救世主は忍ではなくてガン細胞だったのか?」みたいな話を千鳥達がする場面がありますが、これってものすごくわかりやすい比喩になっているわけです。
つまりガン細胞=イマたん。
イマたん=プレイヤーという隠喩。

要するに、通常のノベルゲームでも僕達プレイヤーは主人公に「憑依」するわけで、言ってしまえば、そのようにして主人公の行動を操るわけです。
主人公の感知し得ないところから勝手に。
イマたんは未知の生命体のような扱いでしたが、まさに僕らも作中の主人公からしてみれば未知の生命体と大差なく、そのようにして知らないところで操り人形にしてしまう怪物なわけです。

主人公の頭の中に巣くったガン細胞が、イマたんであり、ノベルゲームを楽しんでいる時の僕達プレイヤー。
そして僕達の力添え、選択があればこそ世界が救われたりします。
忍もイマたんの手助けがあったからこそ、上位存在を撃退できました。
実際、イマたんは世界の救世主です。
ですからノベルゲームをプレイしている時の僕達プレイヤーも救世主になりえます。
脳に巣くうガン細胞とは、なんともはや、言い得て妙な、納得してしまう比喩ですね。

そして、展開としては、戦争によって脳に障害を負い、前後不覚の記憶障害に陥ってしまった忍をイマたんが助けるわけですが、いやはやこりゃすごい。
忍の目を通して盗み見ていた景色を、今度はイマたんが主体となって構成し直し、その記憶を忍に与える事で障害を克服させようとするのですから。
忍が回復した記憶とは、実のところイマたんが作り上げた擬似的なものであり、自らのものではありません。
これはつまりはプレイヤーが物語の中に降臨して、主人公に自分の体験をプレゼントしたという事ですよね。
どうかやさしく配列されますように……。
といいますか、その前に忍を戦争の時にも助けてますしね。
プレイヤーが主人公の窮地を救った。
イマたんも「思わず手を貸してしまったの」とか言ってましたし。
いやいや、ロミオさん、ぶっちぎってますね。

話が一区切りつきました。
が、上記考察と絡めてもっと掘り下げていきます。
どんどんいきます。

「このゲームは二回目以降のプレイからが面白い」という感想をいくつも目にしました。
僕も実はそうなのですが、思うにこれ、かなりこのゲームの核心を孕んだ感想ではないでしょうか。

考えるにこのゲーム、「初回プレイ時」と「二回目以降」では、性質の異なるゲームに変身すると思うのです。
初回とそれ以降で、楽しみ方に大きく違いが出てきます。

初回は、忍に寄り添う形で物語を純粋に楽しみます。
サスペンスがあり、ドキドキワクワクの感動があります。

二回目以降は、もはや物語から遠く離れて、今度は「物語」を玩具のようにして、僕達は楽しみます。
物語には移入しません。できません。

何が言いたいのかといいますと、このゲーム、実は一度EDを迎えた後にこそ真の姿を現す事となるのです。
これはこの拙論の中でも押さえておいて欲しいところです。

思い出して下さい。
このゲームは、ゲーム自体が「インターネットのサイト」という設定になっているのです。
ですけれど、初回プレイ時は若干の違和感を覚えこそすれ、そのこと自体意識できませんでした。
僕達は一度EDを迎えたからこそ、それを理解できます。

要するに、やっと僕達は全ての意味を理解し、しっかりとサイト内の物語をイマたんや忍が望むように閲覧できる「資格」を得た、このサイトの「真の訪問者」となりえたのです。
やっとサイトの入り口という、物語の終わりに辿りつきました。
やっとゲーム内で提示されている、正しい物語の楽しみ方を味わえる地点に到達しました。
やっと忍達の意向に沿うように、物語に寄り添う事が可能となったのです。

忍達の意向とはなにか。
このサイトは記録です。
イマたんが残していた記録です。
そしてこの記録を補完し、残す事にした忍は、この記録を見た人、つまり僕達に何を望んでいたでしょうか?
思い出してください。

「どうだろうか。この記録を読んで、あなたは何か考える所はあっただろうか。何か見つけてくれたら、僕は嬉しい」という感じの事をエピローグの最後に忍は言っていたではないですか。

僕達に、忍はこの物語(ゲーム)を素材として、何か有意義なものを見つけて欲しいと願っていたのです。
それこそが、記録を残す決断をした大きな要因でありました。

つまり、「このログを自らの問題に照らし合わせて受容できる」という最低条件をクリアする事が、真の訪問者になる資格であり、その資格を得る事ができるのは、やはりしっかりと設定を飲み込めている二回目以降のプレイからなのです。
そうしないと物語を見通して、思考できないからです。

そうなのです。
予備知識を得てからこそが、この物語(このゲーム自体)の真の訪問者となり得るのです。
忍達が残したこの記録を、忍達が望むように受容できるようになるのです。
なので二回目からが面白い、という感想は忍の願い的にもこのサイト(最果てのイマというゲーム自体の設定)的にも本望であり本質を捉えた物であると思います。

捉えようによっては初回プレイ時は、スタート地点に立つまでのプロローグであり、ゲームが真の姿を現した二回目からこそが、「本当のプレイヤー」としてゲームを楽しめるようになると言えるのかもしれません。

また、忘れてはならないのが、二回目以降の方が面白いという意見の大きな理由として「考察の面白さ」というものが言われていますが、これもかなりこのゲームの本質を孕んだ的確な理由だと思います。
なぜかと言いますと、前述してきた事とも深く繋がってくるのですが、このゲーム、「考察欲求を持ってくれる事を求める作り」になっているからなのです。(ここでは設定等の考察ではなく、内容面の考察を言っています。)

OPムービーで「千々に撒かれたパズルのピース、どうかやさしく配列されますように……」というメッセージが出ますが、イマたんは必死に忍の記憶を配列しようとしていたわけですよね。
そのピースの集体がこのゲーム。
僕達は前後不覚だった状態を抜け出し、そのイマたんのパズルをやっと目の前に顕現化する事ができるようになりました。

その意味でこのゲームはただ単に受容すれば済むというものではなく、ユーザーが「能動的に」作品と関わる事を求める作りであると言えると思います。
前述の忍の意向的にも。
本来は能動的に関わってもらわなければ意味のない作りなのだという事すらできます。
作中の物語はそれ自体思考のための「道具」であって、それを踏み台にして飛翔するのが真の楽しみ方となっているからです。
だってこのサイト、「記録」なのですから。

ですのでもとからプレイヤーを巻き込む意図があったわけで、もとより考察欲求を前提としたゲームともいえるのです。
その考察が行えるのが二回目から。
という事で、この意味でも二回目からが面白いと言っている方々の言っている事は、制作者からしてみればしてやったりという感じでして、このゲーム的には嬉しい楽しみ方といえるのではないでしょうか。

二回目からが、面白いという意見。
僕は初回とそれ以降ではゲームの性質自体が全然別物になると前述しました。
先程まで必死に説明していたのは「物語から人生に意義ある発見をする」という考察です。
これが、このサイト的に求められている考察です。

ですが、ご承知の通り、普通考察と言ったら「物語の整合性やらなんやらという意味を想像し補完する」という意味ですよね。
実はその意味でもこのゲームはその考察欲求を求めるものとなっています。
否応なしに、僕たちは考察させられてしまうのです。

実は僕達のプレイ心理を読み解くと、初回プレイ時とその後では、僕達の移入すべき分身である主人公自体が変更されている事に気が付きます。
初回プレイ時は忍、ですね。
ですが、一度EDを迎えてからは僕達の移入対象は「イマたん」になります。
そして突き詰めると「ロミオたん」になります。

この説明、一見突飛ですが、説明を聞けば「あたりまえじゃん…」と思われる事うけあい位に簡単な事を言っていますので、とりあえず読んでみてください。

このゲームは初回プレイ時はある程度主人公・忍に移入する形で進められるわけですが、一度EDを迎えた後にプレイすると、もう忍に純粋に移入する事は難しくなります。
忍がどのような状態にあるのか認識し、世界がどのようにあるのか認識し、物語の配列がどうなっているのかある程度認識してしまった後には、僕達はまるで「物語のパズルを手にしたように」距離を取ってしか物語と関われなくなるからです。
全てを「知っているプレイヤーと、何も知らない忍」という構図となり、その構図を楽しむ事こそが二回目からの視点となるからです。
それに地の文ですらイマたんの創作という、全てが「虚構である」という前提を知ってしまいました。
もはや忍は移入の対象ではなく、【観察の対象】となります。

更に言えば、忍は前後不覚に陥っている状態なわけですが、これは初回プレイ時の僕達と同じ状態といえます。
さながら、その初回プレイ時の僕達を観察しながら物語の進行を楽しむ、というのが二回目からの楽しみ方といえるかもしれません。

このログを採ったのはイマたんです。
だから物語を考察する事はイマたんを考える事になります。
が、それと共にイマたんは必死に忍の記憶を構成しようとしていました。

別にイマたんは物語を「バラバラに」しようとはしていませんでした。
忍視点で楽しんでいる時の僕達を、バラバラにして必死にだましていたのは総監督「ロミオたん」です。
……当たり前田のクラッカーですな。

その為に、僕達が再プレイ時には、その物語について考える事になり、イマたんを考え、そして全てが創作者「ロミオたん」を考える事に繋がります。
それはそうですよね。
このゲームは物語がどう物語られているか、が一つの肝になっているわけで、その意味で「物語を楽しむ=ロミオたんの創作過程読み解く」という事にもなるわけですから。

二回目以降から物語にコミットしていこうとすると、それは自然とイマたん、もといロミオたんに移入するという意味合いを持つ事になるのです。

忍の視点から、一気に物語の「外」に視点を映して、舞台を見るように物語を楽しむようになったと考えるとわかりやすいでしょうか?
それまでは舞台上で、主人公を演じていたのですが、今度は外からさっきまでの自分を見るように視点の移動が起きる、という。
少なからず客観視点を持ち、「監督のロミオたんはどのようにしてこの劇を制作したのか」という思考を持ってしまう、という。

考察の話まとめます。
「考察欲求を孕む」にも、大きく分けて「物語の意味を考える」と「物語の設定を考える」の二つの考察があるという話でした。

続いて記事全体についてまとめます。
初回プレイ時とその後では、ゲーム自体の楽しみ方がまるで変換されるというのが僕の述べてきた事です。
二回目から、ゲームは真の姿を現す事になり、ユーザーは「ゲームの真の訪問者」として受容できるようになります。
主人公も移行されるし、全然違う、まるで違う性質の楽しみ方を提供するゲームへと変容します。
一粒で、二度おいしい、みたいな。

初回プレイ時は受動的に物語の展開にハラハラドキドキ、そのサスペンスに心躍らせます。
次回からはその物語の物語られる過程や仕組み、そして世界をよりよく知り考える為に能動的にプレイヤーは物語にコミットしていこうとします。

『一度クリアした後にこそ真の設定が顕現化するという非常に希有な設定を持ったゲーム、それが「最果てのイマ」なのです』
(これだけはほんとにおさえて頂きたい……)

このくらいでしょうか、ううーむ。
……おそらくこの記事、突けばいくらでもボロが出てくると思われます。
記事の詳細の整合性も全くもって確認してないですし。
それにほんとは論点を絞って書いた方が簡潔になったかもしれないのですが、べつにこの記事は論文でもないのでつらつら書かせて頂きました。
んでもいいんだもん。
「これ絶対違う」と思ったらそれを元に自分でも考えてみてくださいね。
少しでも発想のきっかけを持って頂けるような記事を書くように努めたし、それでいいんだ。


はてさて、余談として、個人的に「僕はなぜ最果てのイマが好きなのか」という文章を書かせて頂きます。
読まなくてもいいです。無益です。でも読んでくれたら実はうれしい……。

僕は実の所、設定にさほど興味を惹かれません。
ですがこのゲームを戦争編前のみですが、「するめ」のように味わいながら何度もプレイしています。
なぜに設定に興味がないのに何度もプレイするのか。
その理由を述べさせて頂きます。

戦争編以前、実はこれは戦争編で脳に障害を負ってしまい、前後不覚状態に陥っている忍の「戦争前」と「実は戦争後」の時間がバラバラに繋ぎ合わされているものです。
実は戦争は終わっているという時、その事実を忍に知らせないように皆は忍の為に「演技」をして気づかせないようにしています。(説明むずかすぃ)

皆が忍の為に力を合わせて頑張っているわけです。
とても純粋に健気に忍に愛を注いでいるわけです。
これって構図的には「痴呆になってしまった老人を、無償の愛で介抱する」の図と同じです。
ああ、なんてすばらしい娘たちなんでしょうっ!!
聖母じゃけん!

どうにも僕は「かまってもらえる」という図に弱い。
しかも主人公がまったくその気遣いを理解できていないなんて、プレイヤーの僕は彼女達の気持ちがわかっているだけに、健気さ倍増。
せつなさ倍増。

それと想いを秘めているという図にも僕は弱いなぁ。
だから幼なじみにも弱いんだよなぁ。

それにしてもこのゲームいいわぁ。
全てが終わってる、なんていうのがいいわぁ。
逆転の発想だわぁ。
メニュー画面でのBGMが「遠い囁き」とかっていうのもいいわぁ。
遠いんだもんなぁ、まさに。
やっぱり時の流れを痛切に感じさせるゲームって弱いなぁ。
うう、黄昏れるのだ。