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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

北へ行くと、なんでせつない気持ちになるんだろう。

記事タイトルは僕の大好きなゲーム「北へ~diamond dust~」の説明書でプロデューサーの広井王子氏が問いかけている事です。
北へ、は北国・北海道を舞台としたゲームです。
この問いかけからは「北海道、もとい北のせつなさは万人に通ずるんだ」という広井氏の確信すらも感じられます。

皆さんは、北に行くとせつなくなりますか?
僕は、なります。
広井氏の問いかけ通り、北へ行くとせつなさを感じずにはいられません。
そして、やはり北に魅力を感じる人は、せつなさを感じている人が多いのではないかとも思っています。

でも、せつなくなるのはどうしてなのかな。
それを考えていきたいと思います。

まず、最初に結論めいた事を書かせていただきます。
なぜ、せつなくなるのか。

それは【北は「喪失」、南は「充足」】だからではないでしょうか。
つまりは、北の大地はノスタルジーを喚起させるのです。
それがじわりと胸を締め付けて、せつなくさせるのだと思います。

わかりやすく言いますと、廃墟を見た時を思い浮かべてみて下さい。
廃墟を見た時、過去に存在したであろう栄華に思いを馳せませんか?
そして、全てが過ぎ去ってしまった空間に静謐な誠実さを感じませんか?
頭の中で想像して、時の流れを肌で感じて、せつなくなりませんか?

北に感じるせつなさとは、おそらく廃墟を見た時の感傷に近いのではないかと思います。
それは、謹厳な命を感じる事によって、いつもより死に近づくという事です。
私達は時の流れを感じる事によって、せつなくなります。
生命の停止を感じるのです。
死生観を呼び起こされるのです。

例えば冬。
枯れ木や雪に覆われた自然や町、凍ってしまった滝等、北とは生命の停止を想起させます。白く覆われた町はいつもの活気を失い、静けさに包まれます。
それは廃墟を見て過去の栄華に想いを馳せる事と似ています。
今よりも、過去を見ている。
単に雪の白の美しさという美的なものも含まれますが、それ以上に時の流れがせつなさを抱かせる事になります。

春や夏にしても、長く厳しい冬があるからこそそれが終わりを告げ、暖かな春が到来した時には、より生命の伊吹を感じる事ができるのは想像に難くありません。
そしてその美しさとは「生命の暖かさ」と同時に「生命のはかなさ」でもあるのです。
春から夏にかけて、北国の自然の美しさとは「散り際を想像させる美しさ」であると思うのです。
頭の片隅では無意識に散り際が想起されている。
それがせつなさにつながるのではないでしょうか。

これが南であるならばそうはなりません。
例えば僕はこの間、遙か南の小笠原に行ってきましたが、やはり「生命さんさん」という感じをうけました。
生命は力に溢れ、活動的であり、「生命の停止」とは逆に「生命の躍動」を感じました。
その為か住民の方々も快活で、朗らかだなぁという印象を持ちました。
これはもう身体レベルで誰しもが抱く感覚ではないでしょうか。
動物は冬より夏の方が活発に動けるのと同じく、自然環境という面でも南の方が生命は躍動的になれるはずです。
南へ行けば、自然と心が躍り、朗らかになれるという事がおうおうにしてあると思います。

北は喪失感、南は充足感を身体レベルで纏うという事です。
そう、喪失感。
北は、ノスタルジーを感じさせるのだと冒頭に言ったのも、喪失感こそが北の大地の根幹であるからなのです。
喪失感が、せつなくさせる。

…………ここまでが一般的な北のせつなさの説明となりますでしょうか。
納得して頂けたかはともかく、僕が考える多くの人が感じるせつなさのメカニズムは、おそらくこうではないのかという一通りの説明はしました。
では、ここからは論が破綻する危険を感じつつも、もっと掘り下げてみたいと思います……。

上記結論を掘り下げて考えていく上で大切な事があります。
それは北国の魅力「せつなさ」とは喪失である為に、さっきさらっと言いましたが「想像する」という行為が前提となっているという事です。

北に赴くと喪失感によって、喪失を「想像させられて」しまう。
つまりは北の魅力とは、受け手が自ら能動的に受容しようとする事で発生するのです。
人と環境との共同作業がもたらすせつなさ、それが北のせつなさの本質なのです。

要するに北の地とは異世界であり、本質は幻想空間なのです。
北を訪れるとは、それぞれの内面での幻想を得る事であり、想像力の働きが鍵となっています。

南でしたら現実とひと続きになっています。
現実の延長に位置し、積極的に現実世界を生きる生命の躍動や賛歌こそが南の魅力であります。
南の場合、自らを省みるというよりも、積極的に現実にコミットしていくように思えます。

「満たされない想い」を自ら補完する事で魅力を感じるのが北国。
「満たされる想い」を受け取り、それを糧にして現実を謳歌しようとするのが南。

つまりは、北は「外側から愛でる性質のもの」であり、南は「内に入って生きる性質のもの」であるのです。
これはこの拙論の中でも押さえておいて欲しいところです。

北に魅力を感じる人は「内向」、南は「外向」気質ともいえるかもしれません。
印象論ですが、繊細で内向的な人には北に惹かれる方が多く、おおらかで快活な方は南に惹かれる方が多いのではないでしょうか。

一言で言えば、北に喪失感を見て取った僕達は、自らの喪失もそこに重ね合わせるという事です。
自分の漠然とした失われてしまった時間に対する郷愁を実感する事でせつなくなる。

上記説明、わかりづらいかもしれませんので僕を例にとって説明します。
ただ、以下は僕にとっての喪失されたものであるので万人に当てはまるものではありません。そのまま受け取らないでくださいね。

……例えば真冬に僕が北国、そうですね、憧れの北海道に行ったとします。
関東に住む僕は、その寒さに驚き、身をちじこませ、ぶるぶると震えるでしょう。
眼前には白く覆われた町。そして自然。
ですが、僕はそれをこそ求めて行ったともいえるのです。
北に行くと、単純に生命として死を身近に感じ、弱くなったように感じる。
しかし、弱くなりたいのです。僕は。

僕はいつまでも子供のままでいたいと願っています。
ですが、まあ世の中そうもいきません。
大人になる事を迫られます。
でも、やっぱり子供の自分のままでいたい。

北国は僕を子供に還してくれます。
寒さと生命の停止を感じ、いつもより生の鋭敏さに触れる事により、僕は子供の頃に戻ります。
さむいと言って震えている時、「かまってもらえる」という感覚を抱きます。錯覚と言ってもいいかもしれません。
もちろん自覚などしていないです。無意識に。感覚的に。

死に誠実で静謐な大地は、時の流れを感じさせ、過去に思いを馳せさせる。
そして僕の場合、母のぬくもりを想起する。

暑い時より寒い時のほうが、包まれている感覚を抱かないでしょうか?
こたつや布団のぬくもりやホットミルクなど、温もりを感じる機会が多いと僕は思います。
そんな時、僕は母の腕を求めています。
あったかく、絶対的な包括感を求めています。

要するに、僕にとっては北の大地とは「母性を感じさせてくれるもの」として存在しており、北の大地はまさしく母なる大地となるのです。
母のぬくもりを擬似的にでも得る事ができる場所、それが僕にとっての北になります。
北の大地の喪失は、自らの喪失も想起させるという上記説明に繋げて考えると、つまり僕は北の地に「母性の面影」を見るという事です。

これは春や夏でも同じ事です。
体感温度の違い、生命の散り際を思い浮かべるという北国補正、それらが僕を過去へと誘います。
ひとときだけの生命の切実さを見る事で、失われた時間を想起します。
そしてせつなくなる。

僕にとって子供の頃の「母の温もり」は既に失われてしまったものです。
今では遠い過去になってしまった「喪失」されたものです。
その喪失がぽっかりと胸に穴を穿つ。
これが儚さであり美しさであり、そしてせつなさなのです。

うーん、こんがらがってきたかも……。
すみません、なるべくわかりやすいようにまとめます。

つまり、
前半では北の大地の生命の儚さが、喪失感を抱かせる。
それがせつなくさせるのだと言っています。

後半ではもっと掘り下げて、その喪失感を埋めるという想像力こそがせつなさの本質であると言っています。
想像するとは、その人自身の人生を無意識に重ね合わせる事を意味している。
言うなれば景観から感じる喪失感とは、見ている景観にだけ読み取るものではなく、自分の過ぎ去った時間に対する喪失感でもある。
詰まるところ、自らの過ぎ去った時間を愛でているといえ、その哀愁やノスタルジーが切なくさせるのだ。
と言っています。

北の大地の魅力とは自らの内面への旅を促進してくれる事であり、過去の哀愁に浸れるという事なのです。

南はいうまでもなく、内面への旅ではなく、現実の、生身での触れ合いです。
言ってしまえば北に行くとは、自分を見つめる事と同義なのであり、北の大地を見る事は、自分自身を見つめる事になるのです。

よく映画や漫画などで、北に向かって一人旅をする事で自分自身を見つめるという場面が描かれたりしますが、それはこのような理由からなのではないでしょうか。
そういえば、南に自分探しの旅に出る作品を僕は見た事がないような気がします。

つまり、
【北に行くと感ずるせつなさとは冒頭述べた喪失のノスタルジーには違いないが、それは北国の景観にだけ適用されるものではなく、自分の人生も含めた「失われたもの・または失われるものへの哀愁」なのではないか】
という事です。

以上、せつなくなるのはなぜなのか、説明終了です。
長々とお付き合いありがとうございました。