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がんばっていきまっしょい。

考察、新世紀エヴァンゲリオン。

9月に新劇場版も観たことだし、エヴァについて記事を書こうと思います。
エヴァの何を考えていくかですが、僕が執着している「母性」に引き寄せて考えていきたいと思います。

で、そのように考えていく上で、ここに一つの武器があります。
というかこれしか武器がありません。
それは「生命のスープ」という言葉です。

この生命のスープですが、リツコだったと思いますが、エントリープラグ内を満たす赤い液体・LCLの事を指してこう呼んでいました。
ん、生命のスープ?
これを聞いた時、ふと、これによく似た言葉を思い浮かべました。
それは「原始のスープ」という言葉です。

原始のスープとは、生命が産まれた源となった海の事だったと思いますが、要するに生命の生まれいずる母なる液体という意味です。
生命のスープにニュアンスが似ていると思います。

で、ここからが重要なのですが、精神分析学者ジャック・ラカンがこの言葉を用いて、生まれたばかりの赤子の体感している世界を説明しています。

その説明がこれから考えていく上で重要なので紹介しますと、
「産まれたての赤子は自我が存在しない為に自と他(世界)の区別が存在しない。この場合、他とは主に母親の事であるが、つまり赤子にとって母とは自分の身体の延長に存在し、自分の願いを全て叶えてくれる存在となる。母と子は文字通り一体となっている。境界は存在せず混ざり合い、赤子はとても満ち足りている。個(生命)が未分化のこの状態は原始のスープみたいなものである」(限りなく自己解釈)
という事です。
つまり、ラカンは自我が産まれる前の母子一体段階の事を、生命の生まれいずる原始の海と同じだと例えているわけです。

わかりづらいかもしれませんので補足しますと、ラカン精神分析の創始者フロイトの正当な後継だと自認しているのですが、フロイトは生まれたばかりの赤子には自我がなく、徐々に自我の萌芽が起ってくると言っています。たしか。
フロイト以後の学者で異説を唱えたりしている人もいますが、とりあえずラカンフロイトの考えを引き継いでいるので、こういう自己の未分化を原始のスープに例える説明になるわけです。

で、思うにこのラカンの説明、ほとんどそのままリツコがLCLを指して言っていた「生命のスープ」の説明として用いれるのではないかと。
といいますか、監督の庵野秀明が心理学の本を読んでたらしいので、ここから取ったと想像したとしてもあながち外れでもないかも?

簡潔に言ってしまうと、LCLとは「自分の心」といえるのではないかと思います。
人の心を目に見える形にシンボライズしたものがLCLです。
普通は自我(A・Tフィールド)という殻の中に存在している為に形を保っていられるのですが、自我が消滅してしまうと、自己は消え失せ、ぽんっと心が殻の中から飛び出してしまう。
これは旧劇場版の人類補完計画時の説明ですが、とりあえずはエントリープラグ内を満たすLCLから順に見ていきます。

まず言っておかねばならないのは、さっきさらっと言ってしまいましたが、A・Tフィールドとは自我の隠喩だという事です。
自らの生を自覚できる者は皆、A・Tフィールドを持っています。
動物だと本能だけで生きていますので持っていないはずです。
使途は人類の別の可能性だったと思いますのでA・Tフィールドはありますよね。

A・Tフィールドによって自我を持つ生命のLCL(心)は形を保たれているわけです。
心とはフロイト流に言えば「自我」・「超自我」・「エス」からなりたっており、この三種を繋ぐ役割を果たしているのが自我です。
自我がなくては心はあっても個が確立されません。
自我とは成長と共に身につける思考の力と言って良いのかも知れません。
という事は心の発達モデルで言えば、A・Tフィールドが壊されると退行を起こし、生後間もない自他境界の存在しない原始のスープ心理状態へと戻ってしまうという事です。

で、エントリープラグ内を満たすLCLですが、あれはつまりは包み込む環境を提供している媒介物であります。
エヴァの中にはパイロットの母親の心(魂?)が移植されており、エヴァを動かすとはその母の自我と繋がる事を意味しています。
母子一体となり、シンクロする事でエヴァは動きます。(だから初号機には子供であるシンジしか乗れないし、弐号機にはアスカしか乗れない。レイは魂のない入れ物でしか無い為にどれでも乗れる。たぶん。)
心と心が文字通り繋がっている為に、エヴァの受ける痛みはパイロットも同じように受ける事になるのだと思います。
心を心、魂と魂を繋ぐ媒介物がLCL、つまり心の源泉であるLCLの中に浸る事によって、自我の境界線は曖昧となり、その中でなら他の自我と繋がりやすくなるわけです。
パイロットに催眠をかけて、超共時的心理状態へと誘う為の液体と考えるとわかりやすいかもしれません。

シンクロ率とはよく言ったものですが、しかしながらシンクロ率が上昇しすぎるとエヴァ(母)に取り込まれ、LCLに溶け込んでしまいます。
混ざり合いすぎて、個を確立していられる自我の境界線(ATフィールド)が消滅してしまう為です。
まさに心がエヴァとひとつになりきってしまったという事です。
シンジ君がシンクロ率何百パーとかいうエヴァ暴走後、LCLに溶けてこんでしまうという回がありましたが、あれはおそらくこういう事です。

この場合限定で象徴的に考えれば、エヴァは母、そしてエントリープラグとは母胎の中であり、LCLとは羊水であり、なんかいろんな体に付けられてるコードはヘソの緒であります。
要するに、シンジ君は一人の自我を持った人間としてその中に入るのですが、下手をしてシンクロしすぎると退行を起こし、本当にエヴァに身ごもられた赤子になってしまうのであります。ばぶぅ。

なんだか適当言っている気がひしひしとしますが、気にせずに人類補完計画についての話に移行します。
旧劇場版で人類補完計画発動後、人類はLCLになってしまうわけですが、あれつまりは皆の自我が消滅してしまったという事を意味している事になります。
自我という境界が消滅した為に「自分」がなくなり、人と人の心は溶け合い混ざり合い、一体となってしまったというわけです。
LCLが「生命のスープ」と呼ばれていたのを思い出して下さい。
まさにラカンの言っていた「原始のスープ」の説明がまるっと当てはまると思います。

ゼーレがなんで人類保管計画を発動させたかったかというと、「行き詰まった人類をリセットし、よりよい生命体に進化させる」みたいな理由だったかと思いますが、要するに、一度、人類をまだ何者にもなっていない状態、つまりはまだ「人類」にもなる以前の赤子の状態に戻し、そこからもう一度別の形に進化させようという意図なわけです。彼らは人類に絶望しているので。
人類は皆LCLという自我が確立される前の状態に戻ってしまいました。しかも全員が混ざり合い溶け合い、一つの存在になっています。人類とは異なるより良い生命体へと進化する為には、全てをリセットし、また一から成長する必要があるというわけです。そこからまた自我もとい心を作り上げていきましょうと。そうすれば人類とは違うものになるんじゃなかろうかと。(人類になったとしても少なからず良くなるんじゃなかろうかと)
なので、皆で一つになり、赤子になる必要があったんです。

話を戻します。
注目したいのが、補完計画発動後にレイの形をした象徴的太母が人類を襲いLCLにしてしまうわけですが、その時にその人にとって一番愛されたいと願っている人の姿へと形を変えたというところです。
つまりこれは愛されたい=包み込まれたいなわけで、その人にとって象徴的な母親を意味しています。
だからあのレイを太母と言ったのです。
愛する母親と一体になって自我崩壊し、その殻の中から心が溶け出してしまったわけです。
だから個でいられなくなった。何も考えられない状態になっちゃったわけですから。
先程も言いましたが発達モデル的には、心的に赤子になっちゃっちゃという事ですね。
赤子は自分が生きている事も自分の身体の境界もしっかりと認識できませんから。

で、その証左として、伊吹マヤが「みんなのATフィールドが消えていく……」と言っていましたが、やはりATフィールドとはメタファーとしての自我なわけです。
もう一つ言えば補完計画発動後、LCLの海の中、シンジ君が心象世界でのお母さんとの対話での最後に「ありがとう、お母さん」とかなんとかで別れるという所ですかね。
やはりLCLの中とは母に抱きしめられているような母子一体の環境だったわけです。
そこから抜け出たシンジ君は、発達段階で言えば、ひとつ大人の階段を上がったことになります。

それかTV最終二話の話をしますと、あれも補完計画発動後を描いたものなわけですが、劇場版と描いているものはほぼ同じです。
シンジ君の補完が描かれている場面ですが、あれは先程触れた劇場版でのLCLの海の中、シンジ君が自らを肯定し、もう一度、「全」ではなく「個」として生きていこうという場面に適応しています。
あのTV版後になにが起きるのかわかりませんが、少なくともシンジ君は自他のないという生命のスープ(原始のスープ)状態から個として誕生する事になるはずです。
だから「おめでとう」とか祝福されてるわけです。
「ありがとう」とシンジ君も返していましたよね。
TV版完結後の続きが、劇場版のアスカと共に打ち上げられている場面となります。
これはけっこう的を射ているはずです。

TV最終二話は、劇場版ラストのその前段階、LCLの海の中でのシンジ君の心象世界での決意を描いてたものなんですね。
エヴァはシンジ君が成長しないのがいいと言われたりしますが実の所、前述のように最後の最後に成長してるんです。
母離れをして、一人、現実という痛みを伴い生きていく事を決めました。
まあ西洋的な自立の考え方でいえばですけども。

ですがそうなると、「じゃあなんでシンジとアスカだけ自我が溶けないの?」という事になりますが、これはエヴァに移植されてるお母さんが守ってくれたからです。
二人は補完計画発動時、エントリープラグという母胎の中にいたわけで、その自我はお母さんバリアーによって守られています。
元々エントリープラグ内とは母子一体の海の中なわけで、そこでレイの格好をした太母がやってきて自我を溶かされてしまったとしても、既に母とは一体だったわけです。
つまり偽物の心象的な母(レイ)ではなく、本物の母(ユイ)と魂と魂で繋がっていたわけです。
だから偽物の攻撃を受け、シンジ君の自我が溶けて個を維持できなくなってしまった時に、お母さんが子を想う気持ちで、守るようにそっと外の世界へと押し返してくれたという事です。
「あなたは一人で生きて行かなくちゃだめよ」と言って子供の幸せと成長を願った親心。
エヴァ内にいるお母さんを人身御供にして生き延びた、というかお母さんに説得された、というか。

シンジ君のLCLの海の中での心情風景場面でも、お母さんがレイの格好で「それでいいの?」的な問いかけをしてきてくれてましたものね。
まあ、それかただ単純にエヴァのATフィールドが強固な為に助かったのかもしんまいですが、これだとあんま考える余地がないので、うん。

ちなみに余談ですが、新劇場版とは旧劇場版の続き?になります。
観てない方の為に説明しますと、新劇場版は以前のTV版6話までを作り直しただけじゃなく、微妙に旧劇場版とつながっています。
海の色が赤(LCL)だったり、そこにでっかい綾波レイみたいなのが転がってたり、渚カオルが出てきたり。
これはシンジがLCLの海を脱して再構成した新たな日々という事です。
つまり、シンジが望んだ世界。
や、ちがうか?
まだLCLの中で夢に描いている世界かもしれません。
あのTV版でのレイがパン咥えて走ってるような可能世界と同じような。
判断材料が少ないのでわかりませんが、たぶんどちらかです。ちがうかもしんないけど。

ふむぅ、僕の執着している「母性」という事を考えるのにエヴァは面白いですね。
あとはなんかあるかなぁ。
あ、そういえば大塚英志エヴァの夏が続く異常気象に注目して「あれは永遠に続く夏休みだ」と言っていました。
いつまでも子供でいたいという欲望を満たしてくれるものとして存在していると。

なるのほど。
じゃあ少しだけエヴァがなんでヒットしたのか考えてみます。
まず最大の要因は、モラトリアム期にいる人々の大人になりたくないという心情を完璧に満たしてくれるものであるという事です。
なんも真新しい意見じゃなくてすみませんです。

エヴァってシンジ君にシンクロしながら見れないとけっこう辛いところがありますが、(僕の友人は主人公がいらついて見てられんと言ってました)大勢の人がシンクロしてたからこれほどの人気を未だに誇っているわけですよね。
これはバブルという儚い夢が過ぎ去った後の日本の空虚感が産みだした現象か。
そこに90年代という失われた10年とまで呼称されている当時の日本の空気感が影響していた事は否めないと思われます。

えーと話を戻して、いつまでも少年時代のユートピアに浸っていたいという願いを叶えさえてくれる物語がエヴァなわけです。
そう、まさにユートピア
誰か僕を見て、でも敵(外界)とは戦いたくない、でも誰か助けて、ねえ僕を見て byシンジ

シンジ君はかなり子供じみた自己中心気質で、使徒と戦うにしても人類を守りたいから戦うのではなく、自分しか戦えないから仕方なく戦うわけですし(アンチヒーロー)、傷つくにしても使徒にやられて傷つくというよりかは、日常生活の人間関係で傷つきます。
とても自分本位な少年なのです。
大塚英志も「使徒はシンジの物語と見た時に、存在するもしないも変わりがない」というような事を言っています。

エヴァセカイ系の筆頭なわけで、セカイ系とは
「過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称」
なわけですが、まさにその通り。

社会がすっぽり抜け落ちて、自分の問題が世界の問題になってしまっています。
モラトリアム期の心情もこんな感じに近いと思います。
美少女との交流、使徒という非日常との戦い、世界を救えるのは僕だけ、みんなの注目を集める。シンジは苦悩して拒みます。
が、実のところ注目を集めているのに拒む事で、より視聴者のかまってもらいたいという願望をキャッチできるのです。
つまりシンジ君にシンクロするのは「誰か僕をかまってよ!」の一言に尽きるわけです。
かまってもらえるシンジ君がそれを嫌がるのを見て、視聴者は「これでもっと構って貰える」と内心喜ぶという事だと思います。

考えようによってはこれほどアダルトチルドレンの心を満たしてくれる世界もなく、かなーり甘美な溺れてしまいそうな世界です。
熱狂的という言葉がぴたりとくるようなファンも多数産みだし、あまり度が過ぎる場合、ややもすると耽美な世界にはまりきって現実世界での成長を止めてしまうように作用してしまう可能性すらあります。

それを危惧してか、ただ単純に嫌悪したのか、庵野秀明は最後にその世界から僕達を突き放します。
これは本田透も言ってました。

エヴァ劇場版を観ている観客を実写映像で流し、そこにテロップで「ねえ、ほんとうに気持ちいいの?」とか被せやがるのです。
つまりはエヴァという甘い虚構に自閉せずにお前らしっかり現実生きろや、と。
その庵野の願いがシンジ君に託され、シンジ君は自他境界のない、他者のいない、傷のない溶けて一つになった世界ではなくて、しっかりと他者のいる世界で自分として生きる事を決意するのは前述の通りです。

つまりは象徴的に考えると、エヴァという物語は僕達を包み込んでくれる「母」で、僕達は「子」なわけです。という事はもちろん作者の庵野もイコール母、という事です。
お母さんに抱えられて僕達は幸せにっこり。
母子一体となり、僕らは満たされています。
でもお母さんは、「あんたしっかりしなさい!」となぜか急に喝。
喝だこりゃあ!
ががーんっ!ショック!!
というのが劇場版最後の突き放した終わり方です。

成長しろ、と。いつまでも自他の境界を認めずにいるな、と。
確かに赤子が現実社会に適応していくためには、甘すぎず厳しすぎず「ほどよい母親」が重要であると、ウィニコットも言っていますが、うーん。

ウィニコットつながりで言うと、移行対象という概念があるのですが、これは赤子が成長していく時に、外界との接触を緩和する為に用いる対象の事です。
幼い子供はしばしばいくら注意しても母の匂いの付いた毛布を手放さなかったり、指をしゃぶったりします。
これは、それを手にしたりする事によって、子供は不安な外の世界の中で精神的な安らぎを得ているのです。言うまでもなく内の世界とは母子一体の安息の関係の事です。
そんな中で少しずつ、外界との接触を深め、しっかりと受け入れられるようになっていくのです。
ですので、成長していくにつれて自然とその対象は忘れ去られていく運命にあります。
毛布を手にする事も、爪を噛む癖も必要もなくなり、普通に外界で一人でもいられるようになります。
これが移行現象とその対象と呼ばれるものですが、この概念はいわゆる物語というものの役割を考える時に一つの指標となり得るのではないかと勝手に思っています。

物語とは日常の中でのやすらぎを得るための一時的な毛布であり、見終わった後には物語(毛布)は捨てられ、現実に回帰し日々をまた生きていく。
蓄えた活力でさらなる成長を目指す。
物語があるから現実に対応できる。
物語とは移行対象である。

仮にその考えを持つとしたら、クリエイターとしての庵野の危惧もわからなくもないかもしれません。
が、ラストシーンでシンジ君と同じく自分本位な子供であったアスカが、首を絞めるという「僕を見て」甘えをいまだ発しているシンジ君にそっと触れ、許し、その姿を見て「気持ち悪い」とまで言わせて終わらせる。
おいおいとなりますよ、そりゃあ。
気持ち悪いと言われているのはシンジ君にシンクロしている僕達視聴者なんですから。
シンジ君も一応一段階成長しましたが、アスカのほうがしっかりと成長しとるわけです。
だから上から目線。
この時のアスカは庵野
しかも劇場だと最後の最後にテロップで「終劇」と出た後に、ガーっと突き放すようにすばやく幕が閉まるという演出が施されていました。
甘い虚構は終わった、お前ら現実に帰れ、との庵野秀明の演出。
ていうかお前もおたくだろ、庵野っ!!って思わず言いたくなったりしちゃったり。
ぎゃおす。

ああ、そろそろ燃料が切れてきました。
このくらいで終わります。