開店休業

がんばっていきまっしょい。

滝本竜彦さんについて。

滝本竜彦さんがスランプに陥った理由を考えてみる。以下言うまでもなく全て推測である。怒らないでくだはい。
ちなみに僕が読んだものは「ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ」と「NHKにようこそ!」の書籍化された二作だけで、(エッセイの「超人計画」も読んだけど)短編等最近発表されたものは読んでいない。
それと僕は滝本が好きで新作を心待ちにしているのだが、いつまでたっても出版されないので寂しい。
最近やっと小説を書き出したみたいだが、それにしても連載休止になってしまったようなのでやはりまだスランプを抜け切れてはいないのだろう。(関係ないけど市原隼人主演で「ネガティブ~」が映画化されるようですね。どうなる事やら)

さて、まず初めに上記2作品の物語構造を読み解いてみたいと思う。
みなさんは気が付いていただろうか? 
実はこの2作品、ほぼ構造が同じなのだ。
2作の共通するおおまかな流れを抽出し、まとめていく。

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〈起〉
1。
茫漠とした日々を送っている主人公。
自分の生きている意味とはなんなのだろうか?という思春期特有といっていい悩みを抱えている。
なんとかその怠惰な日常から抜け出したいと思っている。
しかしどうにもならない。ああ、自分の生きている証が欲しい。

2。
そこにヒロインの美少女が現れる。
そのヒロインは主人公にとって非日常への誘いである。
願ってもないチャンス。
ヒロインとの交流が始まる。
(絵理と岬)

しかしその美少女も実は日常という現実に適合できずに苦しんでいた。
二人はお互いを支え合うことで現実に立ち向かっていこうとする。
(ちなみにネガティブのチェンソー男は「現実」の隠喩であるとも読めたりする。絵理の場合、家族が死んでしまってから現れたという事からもそれはうかがえる。受け入れたくない現実の具現化した形。二人はどうにもならない現実に立ち向かっている。その為、最後に主人公が立ち向えた時に物語は終幕する。その「現実」がNHK~では、NHKという空想の組織である。こちらはわかりやすい。)

〈承〉
3。
主人公には親友がいる。その親友は主人公とは違い打ち込むものを持っている。なんとか日常をやり過ごしている。
そんな親友に内心羨望を抱く。
(音楽制作とゲーム作り)

4。
また、主人公には今は離れてしまったが過去に大切な人がいた。
ヒロインとの交流の中で、その人の事を思い出さずにはいられなくなる。
その大切な人も俺と同じようにもがいていたんだ。
その人を理解する事で事で自らを省みる事になる。後々、この事が主人公の決断の大きな要因になる。
(死んだ友人と高校の美人先輩)

〈転〉
5。
そんなヒロインとの交流であるが、しかしそれは唐突に終わりを迎える。
主人公がヒロインの求愛をやりすごしてしまった為に関係が続かなくなったのだ。
死地へと赴くヒロイン。
主人公はヒロインを助けようと後を追う。
ヒロインは絶体絶命。
主人公は自らの命を差し出す事でヒロインを救おうとする。
しかしそれは純粋にヒロインの為なのではなく、実の所、自分の生に意味を与える為の英雄願望なのだった。
死によって自らの生に意味を与えようした。
しかし結局命は助かる。
(公園かなんかでの戦い、崖からのダイブ)

〈結〉
6。
再び茫漠とした日常へと戻ってきてしまった主人公。
相変わらず代わり映えのしない毎日。
親友は先に日常への適合を果たしていた。ギザうらやましす。

しかしなんだかそこには以前のような虚無感はない。
なぜなら彼は死に赴き、再び蘇るという民俗学いうところの「通過儀礼」を果たしたのだから。
そんな覚悟を持つ自分に無自覚ながら自信を持つ事ができている。

「それに今は俺の隣にはヒロインがいる。
これからは二人で手を取り合っていくことでなんとかやっていけるだろう。
俺は生きている意味を見つけたのかも知れない…………。」
~Fin~

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どですかでん、そっくしじゃないじゃろか?
僕は先にNHKを読んだんですけどネガティブを読んでびっくりしましたよ、これ同じやーん、て。

以前滝本のインタビューを読んだ事があるのだが、その中で
「NHK~で僕は嘘を書いてしまった為に小説が書けなくなってしまった」
と言っていた。
立ち読みですましてしまったので細部まで覚えていないが、
「恋人がいなくてもやっていけるという事を書きたかったのに、結局恋人がいればいいという結論になってしまった」
との事だった。
なるほど、それで書けなくなってしまったのか。

結論めいた事を言えば、それは嘘ではなく滝本の中で自然と湧き出てしまった「真実」なのだ。
だからそれを知った滝本は愕然としてスランプに陥ったのだろう。
嘘を付こうとしてつけなかった。結局ネガティブ~が俺の全てなのか。これがトラウマ的に滝本を縛っている原因だろう。

あるテーマを設けて、それに則した展開を描く。しかしそれは自らの理想を描こうとしたもの。
つまり「彼女がいなくても俺はやっていける!」という理想。
しかし「実際は彼女がいればそれでいい!」という己の本当の願いが湧き出て作品を変貌させた。
結局は弱い自分が浮かび上がってきてしまった。
これではこの作品は嘘になる。テーマがぶれた。

以下、推察した滝本の心情。
自らの克服したかった現実を克服できないものとして露呈してしまった……。
それを見識ある読者に悟られてしまう……。
「なんだよこいつ、やっぱただのオタクじゃん(笑)」と笑わてしまう……!!
うわぁあああああああああああああああああああああああああ!!
てな感じではないか。
(つまる所おたく万歳!という結論なわけで)

というのも僕は滝本は「おたくな自分」というパフォーマンス的自虐で売っているだけで、実はおたくだと指さされると深層心理でカチンと来るプライドの高い人だと見ているので。
「俺って頭悪くってさ~(笑)」
「そうだよな。お前ほんと頭わるいもんな(ゲラゲラ)」
「・・・・・・・・・・・・・・・はぁ~~!?(怒)」
みたいな人いますよね。これ。

「おたくで何が悪い!!」
という心情が滝本のおたく的パフォーマンスに見え隠れしている気がする。これっていうのは現実に言われたくないっていうコンプレックスを抱えているって事ね。
プライドが高いっていうのが一端でひきこもってたんじゃ?

閑話休題
ネガティブ~はデビュー作であり、おそらく自分の書きたい事を自然に書いたのだろうと思う。ある種、自動筆記的に書かれたような奇跡的な作品の匂いを感じる。作者は楽しんで書いただろう、何も考えずに。
こういうのは結構読者にも伝わるものだ。ちゅーか、あとがきで言ってたかも。

その上で次作、NHKを書き始めた。NHKでは職業作家として小説を書こうと思い、作品を組み立てようとしたのだろう。
それは言うなれば作品とある程度「距離を取る」という事だ。
ひきこもりを題材にし、自らを笑いものにする事でウケを取ろうという魂胆からもそれは窺える。
あれはひきこもりもりを書かざるおえなかったというよりか、ひきこもりもりを書くとウケそうだからといったものだろう。
確かあとがきでもそう言っていたように思う。

フィクションとして自らの現実を提示する事で、同士達に「共感」で売り込もうとした。
もしくは一般人に向け、話題を提供しようとした。そこには作品をビジネスにする魂胆が確実にあった。
一般の人があのもろにライトノベルを読むのかはわからないが、少なくとも前者は正しい選択だった。
滝本は「共感」という素晴らしい武器を持っている。
共感こそが滝本の売りだ。
しかしその共感を得るために自らの日常暴露的な題材にしたのに、それをフィクションとして構築しなくてはならない為、真実を書かねばならないのに真実を書けないという両義性を抱えてしまった。これがそもそものねじれの原因である。

しかしである。
もっと根本的な原因がある。
それは滝本の本質がNHKがネガティブ~の焼き直しになってしまったという事からもわかるように、滝本は
「己の存在をぶつけて小説を書く事しかできない」
という事だ。
それは何を書いても同じになってしまうという否定的なものではなく、何を書いても同じにならざるおえないのだ。
それは自らをぶつけて書いているから。自らをぶつけて書いているのにコロコロと言っている事が変わるなど普通はない。

コロコロ変わっても己をぶつけて書く事もできるのでは?という反論に先回りして答えておく。
まず、滝本の作品との向き合い方は、彼が自覚しているのかどうかはともかく至極「文学的」であるという事を言っておきたい。
僕は文学を
「自らを知る為、成長させる為に作品に向き合い、そしてその作品を見る事で読者も自らを省みて現実に新たな発見をもたらす事になるもの」
という定義で述べている。
これは作家の保坂和志が言っていた事だ。前にこれについて記事を書いた事があるので詳しく知りたい方はそちらを見てほしい。

滝本は構築法を勉強し、手先で語れる作家ではない。要は純エンタメ作家になれる資質はあまりない。
何を書いても自分が出てしまう。
滝本の作品を読むと、読者は滝本の生きざまを作品の背後にすべからく読み取ってしまう。要は作品を楽しむ要素の中に作者の存在も含まれる。
奈須きのこ西尾維新の作品ではそんな事はないと思う。あれは純エンタメであるので作者と作品との距離がある。(だから大河ノベルなんて書ける)
彼らは言葉は悪いが、職業作家的に手先で書いている。まずプロットありき。だから面白いが新しい発見はあまりない。エンタメとしては正しい姿だ。
(ここでNHKで、滝本は思い描いていた展開が破綻した事を思い出して欲しい)

保坂は「プロットがある作品なんて小説じゃない」とまで言っている。これは文学じゃないという意味だと思う。
なにもエンタメに文学性が皆無だなんて言っていない。エンタメは「まず面白がらせる」事ありきな為、作者の内面のうねりが作品に反映されにくいという事。
ハリウッドを観て「新しい自分についての発見があったわ!やったね!」とは言いづらい。
文学とは心に焦点を当てた作品の事といっていいと思う。だから保坂の定義では文学は売れなくてもいいという事にもなるのだが、それはまた別の話。
(上記、あくまでも保坂の定義の援用。僕が言ってるんじゃないですよ。保坂に責任転嫁しておく事で逃げ道を作っておきまふ。ふっふっふっ)

おそらく滝本は自らの内から湧き出る才が「文学」的なものにあるのに、職業作家になりたいと思ってしまったのではないか。
インタビューで滝本は「以前作品で言った事を次の作品では早速翻して真逆の事を言っている位でないと駄目だと思う」という感じの事を言っていた。
これは作品と距離を取りたいという滝本の願望を如実に表していると思う。

滝本は自らの素養としての文学性と、しかしエンタメを書きたいという葛藤に挟まれもがき苦しんでいる。
これはおそらく無自覚であると思われる。
滝本としてはエンタメにいきたい。けれどそれが何故かできない。なんでだ、どうしてだ!?
だから作品を書き始めても以前のように何を考えずに書いていれた時とは違って、違和感を感じてしまい、書けなくなってしまう。
書いているものに自信をもてなくなってしまう。

漫画「NHKにようこそ」では小説と異なりもろにラブコメ風に路線変更されていたが、あれはおそらくリハビリのつもりだったのだろう。
あそこには「俺はエンタメを作れる、自分を出さなくても書けるんだ!」という苦しい作者の心が見える。(もち無意識下での心ね)
なんとか自分を対象化せしめて、作品に向かいたいという願望がひしひしと感じられる

滝本が再び書けるようになるには、そうやって頑張って作品との距離を取れる、いわゆる「職人的な」手先で書く小説家になるか、自分を突き詰めさらけだしていく、いわゆる「文学的な」小説家になるという二つの道がある。
そして滝本が書けないのは「職人的」に舵を取ろうとして失敗し、それは自らの素養が「文学的」であるからなのに、自分をさらけだす事を無意識に拒否してしまっている為に身動きがとれなくなってしまっているからだ。
だから作品を書いてもなにかしっくりこなく、中途半端な感じがして書くのをやめてしまう。

滝本がこの問題を自分で見つけだし解決し、割り切って「職人的」に書くと決めればそのように書いていく事は可能かもしれない。
だがそれでは滝本の長所をスポイルしてしまう事になると思う。
だから個人的には「文学的な」という後者を受け入れていって欲しいと思う。
滝本には奈須きのこ西尾維新みたいな職人的作法は向いていない。
それは素質の問題だから仕方ないのだ。

超人計画」の中で、太宰治の墓の前で、エージェントが滝本に「ほら、手を合わせて僕は平成の太宰治になりますと誓って下さい」と言う場面があったが、その通りなのだ。
太宰治目指してやっていくのが適している。
太宰という現実に適応できない【弱さ】を描いた「共感型」の大天才がいるのだからそれを手本にしてやっていけば蘇生するだろう

エンタメを無理に作ろうとしないで、自らの資質とプライドの高さを自覚し押さえつけ、自らの弱さを指さされ笑われようとも、作品に真摯に素直に向かっていく。

「自分をさらけ出す覚悟を持つ」

この決意を持つ事が滝本には必要なのではなかろうか。
(何回も言うけど、滝本の今までの小説を読んで自分をさらけ出しているように見えるかもしれないが、それは一種のパフォーマンスであって本当にさらけ出しているわけではないと僕は見ている)

とまあ僕の浅薄な推論をつらつらと述べてみました。
……恥ずかしい。