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がんばっていきまっしょい。

幼なじみについて。

僕は以前幼なじみ萌えだという事を書いたのですけど、それに関連して新しい発見があるのでその事について書きまふね。

この間、橋本治という作家の恋愛論という本を読んだ。
そこに
「恋愛というものは【同じ】と【違う】がないといけない」
という事が書かれていた。
【同じ】だけだと関係の中に安心感しか存在せず、緊張感を伴わないからだ。
しかも【同じ】だけの関係だと、異なる存在として相手を尊重していないともいえる。
【違う】がもたらすそのドキドキ感、緊張感こそが恋愛の核なのだ、と。(全て自己解釈)
ははぁ、なるほどう龍一。

それでそれを萌え属性に絡めて考えてみた。
これを僕の萌え系統「幼なじみ」で考えてみると、
『幼なじみには【違う】がない。よってそれに萌えているプレーヤーの感情は恋ではない』
という事になる。
どういう事か、説明しまふ。

幼い頃から一緒で僕の全てをわかってくれてるわけですから【違う】なんてほぼないに等しい。
【同じ】で満たされている。
僕の全てを包んでくれる感覚が売り。
だからそこには対立がない。
つまり秘め事がない、全然。
例えばメモリーズオフの今坂唯笑なんて、もう主人公の智也の全てを知っているし、智也も唯笑の全てを知っているし、ハッピーエンドのあの後、二人が別れるなんてありえないな、という感じ。
メモオフ知らない人、ごめんにゃはい。

これって極端に考えればつまり、
「恋愛通り越して結婚みたいなもの」だと思う。
恋人を通り越して「パートナー」になる感じ。
大げさに言って、恋が成就した時、恋人になるのではなく「家族」になる。

そして主に美少女ゲーム等ではプレーヤーが恋が成就するまでを辿っていくわけだが、つまりそこでもう幼なじみにはそのような「家族」になる下地がある。
ゲーム中、プレーヤーは無意識に「家族」という視点で、主人公と接する幼なじみを見ているのである。
詰まるところ、極端に言って幼なじみであるという事は「恋人にはなれない」という事だ。

ここで「恋人」というものを定義しなければならない。
橋本治は【違う】がなければ恋ではないと言っていた。
その【違う】があるという事、それはつまり
二人がそれぞれ個別の人間として接している為、刺激的な関係が持続される、という事である。
本当は自ら定義しないといけないとは思うが、僕はまだまだ若輩者であるので橋本治の論を援用して、恋とは「緊張感を伴った関係」と定義したい。
もちろん幼なじみのもたらす安心感を恋である、と異論を持つ方もおられようが、恋という曖昧模糊なものを一つの形にくくらないと論を進める事が難しいのでこのように便宜的に定義しておく。

幼なじみには刺激がないのである。
関係が安定しきってしまっている為、緊張感がない。
絶対的な安堵感はあるけど、恋の面白味はない。
恋の面白みとは冒頭に述べたように、緊張感がもたらすドキドキ感こそといっても差し支えあるまい。

これが幼なじみを見ているプレーヤーの心は恋ではないと言った理由だ。
いくら幼なじみに萌えていても、そこには「お互いを熟知している」という暗黙の前提がある為、いくら無茶をしても関係が崩れる心配が皆無で、緊張感がないのだ。
それをプレーヤーは無意識に感じ取っている。
そのプレーヤーの胸の内には恋特有の「ドキドキ」感という刺激が存在しえないのである。
(都合上お互いを熟知していない幼なじみや、過去の出来事によって関係を引き裂かれるという危険を孕んだ幼なじみはここでは脇に置いている)

これはもっと拡張して考えれば、もしそれほど一緒に過ごした幼なじみでなくても、幼い頃に一緒に過ごしたという事実があれば同じように緊張感を伴わない安堵できる関係になる。
それは幼い頃の思い出という、ある種かけがえのない「宝物」を二人が共有している為、親近感が増し、根底で二人は通じ合っているという幻想を見手に抱かせるからだ。
その為、その関係はどんなことがあっても最終的には崩れないという感覚を抱かせ、長年共に過ごした幼なじみでなくても【同じ】は限りなく共有されていると錯覚し、ほとんど緊張感を伴わないといっていい関係になるのである。

では、幼なじみの場合プレーヤーはどのような感情を抱くのだろうか。
それは以前の記事でも書いたが「母性」を求めていると言うのが一番しっくりくる。
幼なじみの放つ、暗黙の絶対的な安心感を魅力と感じて、幼なじみに萌えるのである。
包まれている感覚。抱擁感。
それをプレーヤーは分身である主人公を通して幼なじみと接している時に、読み取っているのである。
これこそが幼なじみに萌える構造だ。

僕は「緊張感のある関係」が恋であると便宜的に定義した。
であるならば、具体的に緊張感とはどのようなものであるのだろうか。
そこには前述のように、「関係が崩れ去る危険性」はもちろん存在している。
が、それと共に、すべからく「駆け引きを行わざるおえない」という要素が存在している。
こちらの「駆け引き」が胆である。

それは前述の、恋とは二人の別々の人間の関係性がもたらす緊張感、という説明とリンクしている。
別の人間であるという事は彼女の胸の内に見えない部分があるという事であり、そこを「想像」する事によって補わざるおえないという事である。
想像するという事は相手をおもんぱかって発言したりするという事であり、そこにはどのような反応を示させるのかという駆け引きがある。
この「想像」というものが恋愛において胆であり、これによって私達はドキドキするのである。

つまりは想像するという事はお互いの【違う】を探るという事なのである。
【違う】のある、緊張感のある関係の中では、その全てを自分自分で掌握できているわけではない。
幼なじみでは掌握しきっている。
言い過ぎなら、何か【違い】があってもその【違い】も含めて承認しちゃってる。
違うことはわかってるから大丈夫だよ、という感じ。
表面的ならともかく、根本的な拒絶がない。
これはもはや概念的に二人で一人の存在であると言ってしまっても過言ではないだろう。

彼女は何を考えているのか、何を望んでいるのか。
こちらから彼女の動向なり心情なりを読み解こうとするとその行為、それこそが恋愛の醍醐味。
だからこそ、関係は揺れ動き、緊張感を伴う。

それでは定義した普通の恋を説明する為に、わかりやすく極端な例を出してみよう。
幼なじみと対局に位置する【違う】を感じやすいキャラはミステリアスとかクールとか。
で、そんな中で「果てしなく青い、この空の下で……」の八車文乃で考えてみる。

文乃はとてつもなく頭が良く、しかもポーカーフェイスで、ある種のしたたかさも持っている。
もしそんな娘と恋愛したら、いくら彼女とわかりあって信頼しあっていたとしても、少なからず「でも本当のところはどう思っているんだろう?」と考えてしまうのではないだろうか。
心を奥底まではわからない。だから彼女の事を必死に考える。関係に安住しない。
これは恋愛関係になる前段階でも同様だ。
プレーヤーは彼女の胸の内を明らかに幼なじみキャラと接する時よりも、考え、想像する。

まあ余談だが、
クールとかミステリアスキャラ等の魅力は、【違う】部分を極端にまとったキャラなわけで、その為このような緊張感という「恋愛」のエッセンスを凝縮して味わえるという事なんじゃないかと思う。

話を戻して、相手を掌握しきれないからこそ、未知の領域があり、新鮮な関係のままでいられる。
クールやミステリアスキャラを例に出したのは、その性格からして内面を全てはさらけ出さない為、彼女達の心にはいつまでも「想像でしか埋められない」部分が存在しているから。
なのでこのようなキャラと主人公が接しているのを見ている時のプレーヤーの心情は「恋」に近いのではないか。
しつこく言うが、矢車文乃を例に出したといっても、幼なじみ以外のキャラを代表させてのことであり、文乃だからこうなのではない。

プレーヤーははっきり言って無条件に物語内の自分がいいなと思った少女に「恋」をしているわけなのだから、クールキャラ等の場合であれば恋になる。
プレーヤーは内面を見せないキャラの、内面を想像する事を無自覚に楽しんでいる。
それは現実世界の恋愛の醍醐味と同様、そこには刺激がある、駆け引きがある。
僕らには絶対に彼女の心、その全てを把握しきれないのだから。
その展開を予測できない、スリリングさ。
それが極端なキャラ矢車文乃で考えた、先程定義した恋である。
(ただ、それをもっと俯瞰して見ればプレーヤーが物語内の少女という幻想を崇めているという宗教になってしまうのだけれど。
現実存在のプレーヤーとフィクションの世界のキャラとの恋なんてありえるはずがなく、萌えは構造的には宗教なんですけどね。確か本田透も言ってた。
まあここでは「恋」と定義しないとはじまらないのでしてますが。)

恋、それは想像力を働かせる人間関係。
だからドキドキする。
二人は限りなく別々の人間。
その魅力を例えるとするならば、
立ち入り禁止の看板の奥に我慢できなくて入りたくなってしまうようなもの、という比喩はどう?
鶴の言いつけを破ってふすまを開けたくてしょうがなくなるようなもの、は?
言わずもがな看板の奥とふすまの奥が恋愛でいう【違う】部分であるわけだが。

例えば、
怪物王女の姫とか、クールですけど、時折見せる主人公への気遣いに心の内を垣間見て、その落差にグッときたりしない?
ああ、やっぱりちゃんと気に掛けてくれているんだ、と。
あれは要するに立ち入り禁止の中を覗けたから嬉しいという事。
しかもそれは愛情という僕らが一番「想像」してたもの
その行為に触れて「やっぱやさしさがある」って僕らは勝手に想像と照らし合わせて再確認してうんうん頷いている。
隠れていた【違う】部分が表出した時に、彼女をもっと知れたと思って嬉しくなるのである。
一気に味わいきらずに、小出しにされてるっていう感じかも知れない。
「ちょっとだけよ~」という感じで、少しづつ彼女の内面を知ることができる。
その早く知りたいと我慢してる時の歯がゆさが快感なのである。
そりゃその要素を拡張させたクール系のキャラにははまりますよ、ええ。

少しごちゃごちゃしちゃったかもなので最後に大まとめ。
        ↓
プレーヤなり視聴者なりが幼なじみに萌える時、その心中は恋よりもぬくもりを求める子の心情なのではないかという事。
幼なじみには「共有し合う」という大きな特質があるわけで、共有しすぎちゃっててそれって実は恋にはなりえていない、という事。
そこには想像力を働かせる余地が皆無だから。
想像力を働かせる関係か否かが、恋かどうかの境目だと考える。
幼なじみの二人で一人的な同一感覚のもたらす安心感は、この恋のドキドキ感を犠牲にしたもの、という事である。

ただ、最後にもう一度逃げ道を確保しておくけど、僕は橋本治の定義で恋とはなんぞやと考えただけなので、あまり深くつっこまないで下さいね。
人によっては幼なじみがもたらす安心感を「恋」だと定義したってなんにも異論はないんですから。
恋や愛なんてそうそう定義できるものじゃないと思いますし。