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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

世界名作劇場:赤毛のアン感想

あらすじ

美しい自然に包まれた19世紀のプリンス・エドワード島を舞台に展開する、想像力豊かな女の子、アン・シャーリーの物語。
マリラとマシューのカスバート兄弟は、孤児院から男の子を引き取ることを決めた。
農場の仕事を手伝ってくれる人手を必要としたためだ。
しかし、駅でマシューを待っていたのは男の子ではなくアン・シャーリーだった。
「女の子では役に立たないわ」と、ぶつぶつ言うマリラに、
「でも、わしらがあの子の役に立てるかもしれんよ」と答えるマシュー。
マシューは、おしゃべりなアンをすっかり気に入っていた。
アンの成長と共に展開するさまざまなストーリーは、時にはおかしく、時には胸を熱くする。
ダイアナやギルバートとの交友、髪を緑に染めるエピソード、 赤い髪を「にんじん」とからかわれたアンがギルバートに石板を叩きつけるシーン、そしてアンに進学をすすめる優しい恩師との出会い…。
孤児だったアンの自己確立のお話。

○監督・高畑勲。場面設計・宮崎駿。キャラデザイン・近藤喜文耳をすませば監督)
演出・楠葉宏三(数多くの名劇を監督。今は新ドラえもんの監督)
数話ながら絵コンテを描いている富野由悠季ガンダム監督)
など現日本アニメーション界においては巨匠と呼ばれる人ばかりという、今から考えると超豪華制作陣。
世界「名作」劇場の名に違わぬ屈指の名作(意味違いますが)
珠玉の物語です。


感想

「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」
僕は赤毛のアン全50話を見終わった後に、涙と共にふとこの言葉を思い出しました。
赤毛のアンほど「時の流れ」を痛切に感じさせる物語を僕は他に知りません。その理由を書きます。

作中、アンが十歳から物語は始まり、最終的には十六歳まで時は流れます。
持ち前の空想癖ですぐに問題を起こし、マリラに行く末を案じさせたアンですが、なかなかどうして立派に健やかに成長していきます。
しかし、当たり前の事ですが、アンが成長して行くという事はマリラとマシューは老いていくという事です。
その対比。
それが否応にも時の流れを感じさせて切なくさせます。
例えば物語の終盤、アンが頑張って採った大学の奨学金でグリンゲイブルズからもっと広い世界へ旅立とうという時には、マリラは以前のような気丈さはなくなり持病の目の病も悪化してしまっています。
マシューにいたっては持病の心臓発作で亡くなってしまいます。
時の流れの儚さを痛嘆させられます。
もう昔の幸せだった日々は戻ってはこない。思い出になってしまった。
誰もがこのような追憶に浸り、寂しさを覚えた事があるのではないでしょうか?

しかし赤毛のアンの時の流れによってもたらされるものは、そのような一抹の寂しさだけではありません。
過ぎ去った時間を愛でる事ではなく、その過去があるから今があり、そして未来があるという時の流れのすばらしさ、かけがえのないものであるという事実を私達に教えてくれます。
それはその後の物語で描かれています。

アンは家を出る事をやめ、自らの野心をしまいこんでグリンゲイブルズに残る事を決断します。
マシューの死後、落ち込んでしまったマリラが、貯金を預けていた銀行も破産してしまうという不幸も重なり、「この先一人でこの家に住んでいくのは耐えられそうもない」とグリンゲイブルズを手放そうとしたからです。
その時のアンの決断がマリラの為にグリンゲイブルズに残る事でした。ここでも時の流れを感じさせますが、それは前出のような昔と今との落差からでなく、むしろ過去を受け入れ未来に向かうその美しさによってです。

「グリン・ゲイブルズを売ってはいけないわ」

「ああ、わたしも売らずにすんだらと、どんなに思っても、わたし一人きりではさびしくて気ちがいになってしまうもの」

「一人でいる事なんかないわ、マリラ。あたしがいるんですもの。あたしはレドモンドには行かないのよ」

「レドモンドに行かないんだって?」

「ええ、あたし、奨学金はとらないことにしたの。どうしてマリラを一人ぽっちにしておけるものですか。どのくらいあたしのために、つくしてくださったかしれないのに」
 ~「赤毛のアンモンゴメリ(著), 村岡 花子(著), Lucy Maud Montgomery (原著)~


アンはもうどこにも居場所がなかった孤児でなく、立派に「グリンゲイブルズのアン」なっていました。
これが赤毛のアンのクライマックス、一つのカタルシスの解放となっているわけですが、この決断のなんと美しい事。
時の流れの無情さ、残酷さを内包したこの決断は視聴者をえも言われぬ感動へと導きます。
この言葉には、それまでの六年間の時間の蓄積が内包されているからです。マリラとマシューとアンが過ごしてきた日々が導いた答えなのですから。
実際、その決断を知った僕の脳裏には、アンが手違いでグリンゲイブルズにやってきた日から、色々な事件を巻き起こした日々、そして立派に成長し気だての良い淑女となった今のアンの姿までが一瞬でばーっと蘇りました。

ああ、よくぞアン!こんなにも立派になって!

感動の波が押し寄せ僕を襲ったのです。
無邪気に遊び続け、愛情を与えられ続けた日々は終わりを告げた今、そこにいるのはもはやあの頃の幼いアンでなく、一人の立派な女性でした。
親が子供の成人式を迎えた時のような心境に近いのかもしれません。

これまでの時間が内包されたその決断にどうして胸を打たれないわけにいきましょうか?
もう視聴者もその決断を尊重せずにはいられなくなります。

アンには無限の可能性が待っていたのに。
夢見た遙かな地平を目指していく権利があったのに。
その為に頑張って大学の奨学金を採ったのに。
それをアンは放棄した。
その事を視聴者は知っている。

マシューが死ななければ、銀行が破産しなければ。
色々な要素がありますが、アンは当たり前の事としてグリンゲイブルズに残った。
それが悲しいけど嬉しい。
言ってしまえば自己犠牲ですが、しかしアンはグリンゲイブルズのアンとしての決断をした。
アンは自らの運命を誠実に受け止めた。
それが悲しいけど美しい。

このような「時の流れ」を赤毛のアンは孕んでいます。
作中、しっかりと時の経過が描写されますし、特に物語後半は、時が流れた事によってもたらされた事象と向き合わなければならなくなった人々の姿が描かれるので本当に身につまされます。

「定められた運命とのかねあいが描かれているのが悲劇だ」とはいとうせいこうの言ですが、その意味で言えば赤毛のアンは悲劇なのかもしれません。
ですが時の流れが悲劇的であり、誰にも不可避な定めだからこそ、何気ない日常がとても大切なものになる。
赤毛のアンはそんな当たり前の事を再確認させてくれました。

ありがとう原作者モンゴメリ、そして高畑勲
僕にとって一生の作品です。出会えて良かった・・・・・・。

余談ですが最終話まで見た後に、再び一話から見始めるともうアンがマシューに初めて出会った時点で涙腺が緩んでしまいます(調子が良ければOP主題歌にて幼年期のアンが出てきた瞬間にウルッとする事もできます)
だってその後どうなるか知ってるんですから。
今、アン達が過ごしている何気ない時間が、どれほどかげがえのないものか知っているんですから。
もう二度目の視聴からは、哀愁の漂う日々に見えて仕方がなくなります。せ、切ない・・・・・・。
男の子が欲しかった家にも手違いで貰われてきた女の子、アン。その手違いがなければこの物語は生まれなかった。
神の授けてくれた子だとマシューは神に感謝しますが、僕もその神の思し召しに感謝です。

といいますかこれでは原作のレビューではないですか。一応アニメの方のレビューなのでアニメのレビューをば。

世界名作劇場の作品はどれも日常を描きます。
日常の中での些細な事件や心の機微を丹念に描いていきます。
このような作品は稀有ではないでしょうか? 
多くの作品はストーリーを展開させる事で視聴者を引っ張っていこうと、その事に重きをおきますから登場人物の何気ない日常を描いたものはあまり見かけません。
そのようなある種の隙間を描き続けたのが名劇だと思います。

アンも例に漏れず、一人の少女の成長を一年かけて丁寧に綴った物語です。名劇の特性とマッチして生まれた傑作なのです。

そしてその特性上、赤毛のアンはアニメであるにも関わらず日々の生活をかなり写実的に、リアリティを持って描かれています。それは壁紙がしっかり描かれていたり、台所からテーブルまではアンの足で何歩、玄関までは何歩といったところまで感じさせるところからもそれは醸し出されています。
実際、実写映画も存在しますが、それはそれですばらしい作品ですが、しかし僕はアニメ版を押します。
何故なら前述の写実的な演出に、絵だからこそ出せる暖かみのある色遣いや人物造形が加わると、それは時に生身の人間よりも、実在するプリンスエドワード島よりも美しく感じさせる事もできるのではないか、いや、できているという月並みですがそのような感想を持っているからです。
それから時折挿入されるアンの空想癖も、写実的なアニメにあって良い意味でファンタジックなスパイスになっていると思います。
 
またこの作品では視聴者が作品との距離をとれるようにしたと高畑勲が言っています。
これは子供ならアンとシンクロして見る。大人ならマリラとマシューのような親の視点で見ることのできるようする為です。
実際作中に挿入されるナレーションも抑揚がなく、第三者が淡々と客観的事実を一言二言述べるだけになっています。
赤毛のアンは少女文学の傑作と言われ、子供の作品という印象が強いと思いますが、客観的視点のおかげで大人にも楽しめるようになっていると思います。

むしろ僕はこの名劇赤毛のアンは大人の方が楽しめると思っていますし、大人にこそ見てもらいたいです。
原作は、アンとシンクロできなければ最後まで読むのはちょっと辛いなというところがありますし。
ファンの間でも子供の頃に見たけどあまり印象が残ってない。けれど再放送を偶然見たらとてもおもしろくてはまってしまったという人が多いみたいです。
年を経てファンブックも発売されたりしています。

その理由として、もしかしたら前述の「時の流れ」を僕以外の人も魅力に感じているからかもしれません。
大人になってから観ると、自身の経験と照らし合わせより深く共感しやすいと思いますので。
とにかく、子供はもちろん大人の皆さんにも是非観て頂きたいです。

 

 

世界名作劇場「赤毛のアン」メモリアル・アルバム

世界名作劇場「赤毛のアン」メモリアル・アルバム