開店休業

趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

即興

 氷付けにされた親を前にして助六は思った。こりゃあとんでもねえことになった、と。
 
 世界が闇に閉ざされて凍てついてしまってから、助六は洞窟の外に出ることはしなかった。なぜなら寒いからだ。当たり前だ、外になど出たくはない。そしてそれまではそれが許される環境にいた。彼は引きこもりだった。
 けれど世界が終わり凍てついてしまった後は、彼は集団の中に属さねばならなくなり、それが彼にとってとても苦痛だった。ネットもなく漫画もなくテレビもない、そんな中で他の誰かと一緒にいなければならない。しかも何かをしていないと責められる始末、こんな環境に彼の精神は堪えられなかった。出て行こう、と決心するまでにさほど時間はかからなかった。
 だが出て行ったところで行くアテもなく、それどころか食料のアテすらなかった。こんな環境で食を見付けられるとも思えず、だから彼は親にねだった。「もっと食料が欲しい」と。
 もちろん親はそれを不審に思い問いただしたが、ただ彼は「お腹が減っているのだ」と繰り返した。そして必殺の言葉を繰り出した。
助六って名前、なんで付けたの?」。
 
 彼は事あるごとにこう言ってきた。助六という名前は現代にあってはとても奇妙に映った。学校でも弄られて、それがイジメに発展して彼は不登校となり引きこもりとなった。親はもちろんその名を良かれと思って付けたのだが、いかんせん壊滅的にセンスが悪くそれが息子を苦しめる結果となってしまったことを心苦しく思っていた。だから今息子がこうなってしまったのは私たちにも責任があったのだと思い、彼にはできる限りのことをしてきた。
 今回もまた同じように物をねだられた。ただしかし今回は事情がちがう。もう世界は終わってしまったのだ。そんな甘いことを言っているようではこの先やってなどいけるものか。
「でもさ、まだ俺らみんなといるし、みんな俺のこと助六って呼ぶじゃん? 昔さ、俺のこと小学生のときに『スケべなろくでなしで略して助六』とか騒ぎ立ててた奴もいるわけよ。そいつにさ、助六ってまた呼ばれるの、どういう気持ちかわかる? ていうか何時代?」
 それで親は何も言えなくなって、その日からせっせと食料を蓄えるようになった。自らの配給にも手を付けずに。
 みるみる親はやせ細っていったが、彼は別段気にすることはなかった。彼は半ば本気で思っていたのだ。自分がこうなってしまったのは何もかも名前が悪い、両親が悪い、と。そしていつしかそんな要望すら忘れた。

 そのうちに外に出て食料を探しに出た大人衆が行方不明になった。その中には両親も含まれていて、彼は内心気が気ではなかった。なんやかんやと言っても親は親、心配せずにはいられない。
 しかして帰って来たのは両親を除いた大人達で、「う、うちの親は!?」と聞いても誰もが神妙な顔をした。そして手を引かれ連れ出された先で、彼は氷付けになった両親と見ることになった。

 両親はそこに食料を隠していたらしい。その時も二人でそこに隠しに行って、帰る時に雪崩に遭い埋もれてしまったのだ。一行は両親を捜して戻らなかったのだ。

 彼は自らの行いを悔いた。アホなことをしたと思った。名前などどうでもいいではないか。なんというバカな理由で親を死なせてしまったのだろう。出て行こうと決めたことは決めたが、具体的なプランなど無きに等しく、彼は今となっては食料の確保を親に頼んだことすら忘れていた。

 結局俺は親に甘えていただけなんだ。
 それは知っていた。知っていてなお甘えていた。それが親の義務であり務めだと思っていた。
 えらいことになった、と彼は思った。二人をなくしてもなお俺は生きていかなくちゃならない。
 アホな理由で両親を死なせてしまった。

 彼は氷付けになった両親を前にしてさめざめと泣いた。涙はすぐに氷となって彼の頬で氷となったが、それでも彼は泣き続けた。

 そして彼はそこにかまくらを作り上げて凍りづけになった両親と共に暮らし始めた。遂に彼は家族団らんを手に入れたのだ。
 今でもあの森の向こうのどこかにはほこらのようなものがあって、そこにはその男が住んでいる。

「----っていう話でさ」
「へぇ~」
「その人、まだ生きてるの? 食料は?」
「危なくなったら親の死体の肉を食らっているらしい。あとほら、時々うちらの食料がなくなることがあるだろ? それはその人の仕業なんじゃないかって噂」
「うっそ-、こわーい!」
「言うなよ? 絶対言うなよ? 絶対言うなって父ちゃんに言われてるんだから、これは禁忌なんだって」
「ううーん、でもなんだかうそくさいなぁ」
「んだよほんとだっての! じゃあ今度行ってみるか? たしかめに」
「お、いいぜ行こうぜ! そんなのぜってーうそだし」
「うっそー、こわーい!」

 ということで少年達は森の中へと入る約束をした。誰もが胸を躍らせていた。子どもだけの冒険だった。集落の大人たちも少なからずこうして子ども時代には冒険に繰り出していたと知っている。遂に自分たちにもその番が回ってきたんだ。
 
 そう思い緩む頬を抑えきれない。
 地獄が待っているとも知らずに。

即興

僕らがまだ死体だった頃、彼女はまだ生きていた。

僕らが生き返ると彼女は死んで、死んでしまってからしばらく待ってみたが生き返らなかったので旅に出た。

戻ってきたら彼女は生き返っていて、僕らにはまた死の時期が迫っていた。

どこまでいってもすれ違う、僕らの生が交わることはない。

「どうしてこうなってしまうんだろう」

僕の嘆きを聞いて、彼女はそっと僕の手を握った。

「でも、あなたが待っていると思えるからわたしは安心して土に還ることができるの」

「悲しいね、僕は君と一緒に生きたいのに」

「いつかできるわよ、きっと、きっと」

そう言って彼女は眠りについた。それがおよそ600年前のことだ。

そろそろ僕らの死の時期が近づいてきた。体が動かなくなり、視界がぼやけてきた。

倒れ伏し、みんなに声をかけた。

「今回は、まだ彼女に会えていないんだ」

それを皆は悲しがり、もちろん僕も悲しがり、再びの再開を夢見て僕は死の底に沈んでいった。

それから何億回もの生を繰り返し、けれど僕は彼女に会うことはできなかった。

思いもしなかった、あの出逢いは、奇跡でしかなかったんだということを。

どうして僕は、そのことに思いもよらなかったんだろう。

会えている最中には気がつけなかった、けれどあの邂逅は奇跡であって、奇跡以外の何者でもなかった。

今ではもう、出会えたとしてもきっと僕は彼女だと思い出すことはできないだろう。

数多の生を繰り返し、何者かになってしまった彼女の、その残り香を、面影を、読み取ることはできないだろう。

彼女もまたそうにちがいない、僕らはもう、お互いを認識することすらできなくなってしまった。

煌々と照らし出す月を見上げる。とうに滅びた地上には、今は僕しかいなくなってしまった。

仲間達もいつのまにか生まれなくなって、いや、もしかしたら僕が彼らと認識することができなくなってしまったのかもしれない。

こうなってしまうのなら、生まれて来たくなんてなかった。

ひとりぼっちは、さみしい。

さざ波一つ立たない海に身を浸す。このまま沈んで朽ち果てて、もう生まれて来たくなんてない。

首まで浸かり、頭を沈めた。そして地の底へと沈んでいく。

------?

と、向こうでキラリと光るものが見えた。

ぼんやりと頭を起こし、その場所へと向った。

そこには光る石ころが置かれていた。

ああ、と思った。うっすらとおぼえている、この石ころは、僕が初めて彼女に出会ったときに、彼女にプレゼントしたものだ。

あれはいつだったか、まだ石器を扱っていた時代だったか、その前だったか。

もう思い出せないけれど、まちがいはなかった。ということは、この場所は、彼女と初めて出会った場所なのか。

「…………」

思い出が、溢れてきた。忘れてしまった、消え失せてしまった思い出が、溢れて止まらず、止めどもなく涙が溢れてくる。

最初、自分がどういう状態に置かれているのかがわからなかった。けれどやがて思いだして、ああ、僕は泣いているんだな、とわかった。それすら摩耗していた。泣くなんて、少なくとも数万回の生のうちではなかったはずだ。

胸が締め付けられるように苦しくて、でも温かな涙が心地良く、僕は、笑った。

誰もいない地上で、笑った。

-----繰り返す生の中で、僕はまた彼女を忘れてしまうのかもしれない。

彼女と出会うことはできないのかもしれない。

けれど、と思う。

けれど、僕はまた彼女を探そう。

この魂が、滅びるまで。

ボツ案

『炎上少女』 

 

俺にだって、初恋くらいあった。

 それはまだ俺が小学校に上がる前の話で、相手は名前も知らない少女だった。
 幼なじみの遥やうちのバカ姉と近所の公園で遊んでいるうちに、いつのまにか混ざっていたのが彼女だった。
 子どもは毎日遊び相手が変わろうが知ったこっちゃない、ゲームの頭数が揃えばそれでいい。ということで俺も最初は少女のことを気にもしていなかったが、いつのまにか少女を目で追い、その一挙手一投足に心を震わせるようになっていた。
 少女は俺らと同い年くらいのようだった。俺らが遊んでいると気弱な笑みを浮かべながら申し訳無さそうに加わった。少女はその年代に比しても小柄で、平均的な体型であるはずの遥と比べてもその小ささは際だっていた。小さくてかわいい、という見方もできるが、どちらかというと「小さくてやせっぽちでなんだかかわいそう」という感覚を抱かせる少女だった。それは少女の性質がそう見せていたということもある。
 というのも、少女はいつもオドオドし、能面のように貼り付けた笑みで愛想笑いを浮かべてばかりだったからだ。俺らの輪に加わろうとしていることからも友だちを作りたいという強い想いは伝わってきたのだが、いかんせん少女は不器用過ぎた。存在感は薄く、こちらから話しかけなければ一言も発しないような内気な性格をしていた。時折話しかけてみても明らかにテンパって、目が泳ぎ、アワアワと焦りだし、口を突いて出る言葉もしどろもどろで何を言っているのかさっぱりわからなかった。それで俺らが困惑していると、少女は瞳に大粒の涙を溜め、俯き、けれど泣いてはいけないと己を奮い立たせ、手で目を拭った後に顔を上げてまた能面のような笑みを顔に貼り付けた。
 それを俺の仲間達は不気味に思い、あるいは面倒に思い、すぐに少女にかまうのをやめるようになったのだが、俺はその笑顔に、いつも胸を締め付けられた。自分でも何故だかわからない、でも彼女を、少女を守ってやりたいと、そう強く願うようになっていた。もしかしたら妹でもできたかのような感覚になっていたのかもしれない。それはわからない。今になっても。

 だからそう、少女は俺らの輪に加わっていたといっても隅でチョロチョロしていただけで、空気のような存在だった。誰も少女を相手にしなかったし、気にも留めなかった。別にハブにしようとしていたわけでもなかったし、俺の仲間にイジメをするような歪んだ奴もいなかったが(そもそも小学校に上がる前の話だ)、遊びに夢中になった子どもに、不器用な子どもを気にかけろというのも無理な話だ。必然少女は隅で愛想笑いを浮かべながら『参加しているような感じ』にならざるおえなかった。周囲からは輪の中にいるように見えただろうが、俺らには少女が「仲間か」と問われれば、即答できないようなところがあった。誰もが少女を忘れた。あるいはいない者として扱った。
 俺以外は。
 俺は少女が隅で所在なさげにしていたらパスを回し、かくれんぼで一人忘れられたら皆にその存在を思い出させるように努めた。いつも気に留めて少女が疎外感を味わわないように頑張った。例えばドッジやサッカーで少女にパスを回すと味方からは非難を浴びたが(もちろん少女はボールを奪われることしかできなかったからだ)、それでも俺は少女にボールを回し続けた。そのことで散々「お前あいつのこと好きなんだろー!」とからかわれたりもしたし、それは幼い俺を激しく困惑させ、顔を真っ赤にしながら掴みかかることすらあったが、それでも俺は「俺があの子を守るんだ」という使命感のようなものに燃え、少女を害する全てのモノを俺が排除するのだとやっきになっていた。うちのバカ姉にもからかわれたし、遥は俺が少女の肩を持つと決まってブスッとふてくされたが、俺は少女を放ってはおけなかった。
 異性というモノを知るには幼すぎた。
 でもそれが俺の初めての「好き」という気持ちだったのだろうと思う。
 そしてそれ以来、俺はその「好き」という気持ちを抱いたことはない。

 少女との距離は日増しに近づいて、少女は、いつしか俺に懐いてくれるようになった。同年代で懐くという言い方も少し変だが、俺にはその言い方がしっくりくる。少女は、俺に心を開いてくれるようになった。少女と二人でいると、少女は俺に自分の話をしてくれるようになった。
 曰く、母親は自分を生んですぐに死んでしまったこと。
 曰く、父は男手ひとつで私を育ててくれてて、とってもやさしいし、大好きなこと。
 曰く、友だちが欲しいけど、こんな性格だからうまくいかなくて、そんな自分が嫌いなこと。
 俺はよく知った顔でそういう話をフンフン聞き、しょんぼり顔の少女の頭をクシャクシャと撫で回し(当時静姉がよく俺にそうしてくれていたのだ)、勢いよく自分の胸を叩いて
「大丈夫だ!」
 と言い放っていた。
 何が大丈夫なのかよくわからないが、俺は少女を元気付けたかったのだ。俺は君の味方なのだと、そう伝えたかった。それがガキなりの意思表示だった。それを見た少女はしばらくのあいだ目を丸くして、そのあとクスリと笑って、俺に、ハニかんだ笑みをくれた。それは俺の胸に、とてもあたたかく、やさしい液体となって流れ込んだ。ゆっくりと、じんわりと、俺の五臓六腑は、包み込まれ、癒された。

 そしてあの日がやってくる。
 あの日、俺たちはいつものように遊び、疲れ、帰路に着いた。そうしたら突然後ろから服を引っ張られ、振り向くと、少女が顔を赤らめて上目遣いに俺を見ていた。その様子は、いつもとは少しちがっていて、俺は、ドギマギしつつ、少女に問いかけた。
「な、なななななにっ」
 声は震えた。声だけじゃなく、膝も。
 少女は手を胸の前で組み、もじもじし、何度も声を詰まらせ目を伏せ、でも意を決したかのように顔を上げ、俺の目を見据えて、言った。
「あ、あのっ、あ、あ、ありが、ありがとう……!」
 その夕陽に染まった満面の笑みは、涙を溜めて濡れた睫毛は、今でも俺の脳裏に焼き付いている。まるで宗教画のように、俺の古き良き幼少時代の象徴として、厳重に鍵を掛けられて胸にしまわれている。
 そのとき俺は真っ白になったが、ガキなりに何かを言おうとして、けれど背後でバカ姉がニヤニヤしている事実に気が付き、耳まで沸騰し、堪えきれずに踵を返して駆けだした。
「あっ」
 という少女の声が聞こえたが、振り返ることもせず一目散に家に駆け、服を脱ぎ、浴槽へとダイブした。心臓が太鼓を打ち、全身が火照り、俺は雄叫びを上げながら何度も湯船に顔を打ち付けた。もちろんその後はのぼせてブッ倒れたが。
 それがとある冬の日のことで、俺が少女を見た最後の日となった。
 少女は俺の前から姿を消した。
 忽然と。

「まさかこの街でこんなおぞましい事件がねぇ」
 俺も事件のことはなんとなく知ってはいた。街の雰囲気が尋常ではなかったからだ。いつもは「外で遊んで来い」と口うるさい親も「家にいろ」とあまり外に出してはくれなくなったし、幼稚園でも先生達がピリピリしていた。幼いながらに友人達と情報交換をした後、どうもこの街に誘拐犯が出没しているらしい事実を知った。誘拐、という言葉こそ知ってはいたがその恐ろしさまでは知る由もなく、ただ友人から「知り合いの子がいなくなっちゃったんだ」と聞かされて、「ふぅん」などと頷いてみせるだけだった。
 外で遊べずに家で退屈を持て余しているうちに、犯人が捕まった。俺はそれを喜んだが、大人達は一様に複雑な表情を浮かべた。犯人は、この街に住む中年の男だったからだ。
 連続幼児誘拐殺人事件、犯人は、なんの変哲もないこの街に住む中年の男で、連れ去られた幼児たちは山中で見るも無惨な姿で発見された。
 と言ってもその犠牲者の中に俺の初恋の君がいたというわけじゃあない。
 むしろその逆で、少女は加害者の側にいた。
 少女の父親が、犯人だったのだ。

 けれど俺がその事実を知ったのは少女が街を去ってからのことで、俺はしばらくあの公園で少女を待ち続けた。日常が戻ってからずっと、公園でいつもの仲間と駆け回りながらも、少女がやってくる方角を気にし続けた。胸は高鳴り息は弾み、今か今かと待ち続けた。愚かにも俺は彼女の家を知らなかった。名前すら知らなかった。
 なのにいつまで経っても現れず、痺れを切らした俺は恥を忍んで静姉に聞いてみた。そうしたら靜姉は、悲しげに目を伏せて教えてくれたのだ。
「あの子、もういないよ。引っ越しちゃったから」
 と。

 事件の顛末は母さんに聞いた。
どんなにおぞましい事件だったか、どんなに狂った事件だったか、犯人はとんだサイコ野郎で、友人の息子も犠牲になりかけた。でもそのサイコ野郎ももういないし、サイコ野郎の娘もどっか行ったし、この街はまた安全なのだと。安全で平穏で、私達のような善良な市民が住むにはそれはもうサイコーな場所なのだと。
 俺は堪らずに聞いた。
「でもあの子は何も悪くないじゃないか。どうしてあの子が引っ越さなくちゃならないの?」
 すると母さんは言った。
「それはね、誰もその子を引き取ろうとはしなかったからよ」
「どうして引き取ってくれないの? だってあの子、俺らと遊びたがってたのに、せっかく仲良くなれてきてたのに!」
 すると母さんはきょとんと首を傾げて、ぽつりと、言った。
「だってあぶないじゃない、めんどうだし」

   だってあぶないじゃない、めんどうだし。

 この言葉は今でも俺の心に楔となって打ち込まれている。
 だってあぶないじゃない、めんどうだし。
 何があぶないのだろう、何がめんどうなのだろう。
 あのやせっぽちの少女のいったいどこが危ないというのか。一番辛いのは少女なのに、どうして厄介者扱いされなければならないのか。めんどうだと言うが、子どもを守るのが大人の役目なんじゃないのか。
 何が悲しくて、見ず知らずの人に、こんなことを言われなくちゃならないのか。
 そう言いたかったが、幼すぎた俺には考えを纏めきれず、ただ当たり前のように放たれたその言葉に、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

 
 思えばこれが道を踏み外した第一歩で、ここから俺は社会とかいうやつと折り合いを付けることができなくなってしまったのかもしれない。
 大人という生き物に、違和感を覚えるようになってしまった。
 原風景と言うとカッコ付け過ぎだが、たしかに今でもあの少女は俺の胸の内に息づいている。
 あの少女の、あの夕暮れで俺に俺だけにくれたあの笑みは、涙目で恥ずかしそうに、けれど勇気を振り絞って見せてくれたあの笑みは、染み渡る薬効のように、あたたかな液体となり、血流に乗り、俺の五臓六腑に、手足の先まで行き渡った。


 俺は今日も、あの少女を追い求めて生きている。

映画監督・松本人志についての雑感。

松本人志「R100」についての感想がちらほら目についてその時に考えたことなど書きます。

僕はまっちゃんの映画は大日本人しか観ておらず、その後の展開は全く把握できていないのですが、率直に言って大日本人を観た時の僕の感想は「?」でした。あんまり面白くなかった。
でもそれを友だちに伝えたら、その友だちに「まっちゃんくらいお笑いと真面目に向き合ってる芸人はおらへんで」と言われて、「そうかぁ~」と思ったのを覚えています。(僕はすぐに「そうかぁ~」と思う)ちなみにその友だちは面白かったかどうかは明言しませんでした。

確かに見渡してみると映画というフィールドで「お笑い」を撮ろうとしているのはまっちゃんしかいないし、先人もいないような気がします。例えば先人としては北野武が思い浮かびますが、武はビートたけしではなく北野武として映画を撮っています。べつに「お笑い」を軸に据えた作品作りはしていません。
ですがまっちゃんは少なくとも「お笑い芸人」として映画を作り続けています。(観てないから想像でしかないけど、聞く限りでは)
これはたぶんとてつもなく難しい試みだと思います。

これまでだっていくつもオリジナルビデオなりTVなりで似たような試みはしてきたはずです。でもそのフィールドが映画になって、これまでの「大衆」(TV)にフォーカスしてきた作風をどう活かすか、活かせないか、という問いがまずあるわけです。ビデオと同じものにするわけにもいきませんし、かといって大がかりにして映画っぽくすればいいというものでもないでしょうし、これはとてつもなく難しいことだと思います。

僕は大日本人は面白いと思えませんでしたが、友だちの話を聞いて、そして考えてみて、「確かに『芸人』として映画を作るって、松本人志しかいないよなぁ」と思いました。コメディ映画とかそんなんじゃない、芸人という職業を背負ってお笑いと映画の接合を試みる。武のようにお笑いと切り離していない、ちゃんと松本人志として映画を作ろうとしている。これまでの自分の芸人人生の延長に映画を捕えようとしている。

考えるまでもなくこんなのめちゃくちゃむずかしいことなんで、まっちゃんだって四苦八苦してるはずで、これからに期待する意味でも今は暖かい目で見てあげたいなあと思いました。(観てないのに言うか)

そんな感じです。はい。

キャラクター消費ってなんだろう、みたいな話。

 キャラクター消費ってなんぞや、ということを考えています。

 消費と言うとなんだか悪意があるようにも見えるかもしれませんが、僕がわりに熱心に読んでいる大塚英志さんがよく使う言葉でその影響を受けているだけですのであしからず。

 やはり昨今このキャラ消費というものがひとつのセンセーションになっているんだろうな、と思います。僕はモバマス艦これもやっておらず、モバマスにはちょこっと触れましたが正直なにがどうおもしろいのかよくわかりませんでした。女の子達もまあかわいいっちゃかわいいんですが、なんか何人も出てくるしよくわかりませんでした。

 で、おそらくこういうソシャゲにハマる人たちと同人文化を嗜む人たちは親和性が高いだろうな、と考えました。
 僕は同人文化に対する興味が皆無に等しく、ぶっちゃけた話知人のものしか読む気になりません。このあいだも夏コミでうろちょろしましたが一冊も買いませんでした。探せば僕が好きな作品の同人もいくらでもあっただろうに、です。(エロ含む)
 なんというか、僕はキャラクターというのは作者の物である、みたいな感覚を持っているようで、自分で考えてみても「あのキャラクタを好きに動かしてみたい!」という欲求がほぼ皆無です。お話はお話としてその正規の物語で完結してしまいます。

 で、モバマス然り艦これ然り、よくわかりませんがキャラ消費のゲームなんだろうと思いました。ついったのTLを眺めていても四六時中誰それが描いたイラストやら物語やらが流れてきますし、それをニコニコしながらふぁぼってRTしてる人もそこいら中で見受けられます。
 ゲーム自体がコミュニケーションツールになっている、とも言えるのかもしれませんが、僕にはこういうのは同人文化の延長に見えるのです。例えば東方というゲームがその先達だったのかもしれませんが、(東方について無知ですが)なんというか「好き勝手にしてしまえるコンテンツ」が流行る傾向にあるなぁと感じます。
 生産と消費のサイクルが完全に閉じていて、無限に生産可能なわけです。どんなことでもありえるし、内包してしまいます。確固たる固有の物語を持たないからですね。魅力的なキャラクタとシチュエーションだけが転がっている、それを拾ってみんなで遊ぼうといった趣旨です。
 たぶん、御輿なんでしょうね。みんなでわっしょいわっしょいすることも含めて面白いんだろうと思います。

 別にこれを良いとも悪いとも思いませんし、時代の流れなんだなぁと思うだけですが、個人的には今のところ楽しみかたがわからないので窮屈であることは確かです。
 で、僕は昨今の美少女がキャッキャウフフしてる日常モノも苦手としているわけなんですが、たぶんこういう美少女日常モノっていうのもキャラ消費が前提となっているのかな、と考えました。(美少女日常モノと一口に言っても範囲が広すぎるかもですが、まあ、はい)
 こっちが妄想を膨らませるから面白いというか、わかりやすい大きな物語がないわけですから、その関係性やら心情やらをこっちで補完しないといけないというか、ぶっちゃけた話僕こういう作品観てても物足りないんです。そりゃ女の子はかわいいですけどそれだけですし、だからなんだといった感じです。
 でもこういうのが好きな人ってたぶん自分で補完したくなるんでしょうね。同人とか読んでみたくなるんだろうと思います。そしてもしかしたら自分で描いてみたくなるんだろうと思います。ラブライブ!のみんなの熱狂ぶりを見ていてもそう思います。前述の通り僕は同人への興味をほとんど持ち合わせていないので相性が悪いんだろうなぁと思います。…僕は案外旧世代なのか?

 まあ、ソシャゲにしても美少女日常モノにしてもやっぱりキャラ消費の時代なんだろうな、と思いました。

友情とかやさしさとか情の深さとか

 ついったを眺めているとつとに「友情ってなんじゃらほい」と思い、その流れで「やさしさってなんじゃほい」と思う。もちろんそんなものは各人の中でしか答えの出せないものだが、思う。で、思い出したのがこの言葉。

愛情とは、自分の時間を犠牲にしてでも、相手に時間をさいてやることだ。by.Dr,ドリトル


 ああこれだな、と思った。世にやさしさを定義した文章は数あれど(あるのか?)、これが個人的に一番しっくりくる。愛情の中に友情ややさしさも含めて考え、「やさしさとは、自分の時間を犠牲にしてでも相手の為に時間を割いてやること」と考えると、とてもしっくりくる。

 僕は人にやさしくありたいと願っているが自分の時間を消費させられることに人一倍敏感である。何かをしたいと欲望している時にお願いなんかされると「時間がー、俺の時間がー」となってしまう。しかし、だからこそやさしい人というのは自らの限られた時間を削ってでも他人の為に何かをしてあげられる、それが本当の情というやつなのだろう、と考えた。

 ここで肝心なのは「誰かの為に時間を割くことが自分の利になってはならない」ということだ。例えばその人に恩を売っておこうだとか、後々の関係を考えてだとか、そういうやましい下心があってはならない。それでは見返りを求めることになり時間の浪費にはならないからだ。

 これは個人的な体験からもそう思うところであり、僕は「この人が僕に時間を割いてもなんの得にもならないのになあ」と思う人に時間を割いてあれこれ話に乗ってもらったりしたことが多々あるのだが、なんかこうすごく恩義を感じている。「ああ、この人の為に何かをしてあげたい」と思った。すごく嬉しかったし信頼できたのだ。どう考えても僕なんか彼にとってはどうでもいい人物なのに、いやな顔ひとつせず時間を割いてくれた、人として尊敬してしまう。

 究極的に時間という一番の財産を投げ打つ行為、ここにこそ情が宿る。
 僕の周りには僕を含めて自分の時間を取られることに敏感な人が多い気がするのだが、一言で言えばそういう人は情に薄い。それで割り切って生きられればよいが、僕なんかはけっこう人を傷つけてしまうことを恐れるので割り切ることはできない。よく「あー、今発言で傷つけちゃったかもなぁ…」と悩んでヘコんだりする。その割には時間を割く行為には敏感である。この定義で言えばやはりやさしさが足りない。

 個人的には確固とした個を持ち「人は人、自分は自分」という価値観を持っている人には情に薄い人が多い気がしている。そういう人は断絶を恐れないし、繋がりに価値を見いだしていないからだ。
 この感じはクリエイタータイプに多いが、それが世界を強固にしているともいえ、受け手目線では「いいぞもっとやれ」とあこがれるが、私生活の友人としては若干めんどくさいな、と思ってしまうかもしれない。別にあなたがこっちに価値を見いだしていないなら僕だって離れます、と。まあそういう人は強いのでなんとも思わないのだろうが。シンパシーがあるので一概には言えないけれども。

 友情の度合いを推し量ることが可能であるとすれば、その人のことをどれくらい大切に考えているかを量ることができるとすれば、それは『自分がどれだけの時間をその人に無償で使ってあげられるか』という思考から導き出せるかもしれない。
 情の深さというやつだ。もちろんゲスい発想だ。

 まあそんなことを考えた。

風立ちぬ感想

殴り書き感想、ネタバレしますので気にする方はここまででお願いします。と思ったのですが、読み返してネタバレなどほとんどありませんでした。


 とてもよかった。美しかった。「ブラボー!」と快哉を叫びたかった。(そんな度胸はなかった)
晩年の黒澤明然り、叙情的で詩的で、とても心に染み渡る作品だったと思う。


 こう言ってはなんだけど宮崎駿は日本のアニメ界においてその役目をもうとっくに終えていて、千と千尋の神隠し以降の作品はかなり脱力した状態で描いている。肩の力が抜けている。すごく自然体だ。駿としてはもののけ姫で己の全てを出し切った感があると思う。元々もののけ姫で引退するとかシニアジブリを作って好きにやるとか発言していたし、あの発言は半ば本気だっただろうと思う。結局は引退せずにアニメを作り続けているが、それは日本のアニメ界が「駿を離すわけにはいかない」といった状況にあるからで、駿としては「それなら残ってやるけど」状態だ。前述の発言からも「もう好きにやらせて」といった感が滲みに出ている。
 それでもかつての冒険活劇やわかりやすいエンターテイメントを求めてしまうのが視聴者の性だが、人間年を経るにつれパワフルさをなくしていくのもまた道理であり、もちろんかつての駿も駿だが、いわゆる「枯れていく」摂理に逆らう方が不自然だ。僕はそういう素直な枯れを受入れた作品の方が美しいと感じる。

 昔の駿を求めるファンは現在の駿を「終わった」などと言うが、それは「自分の求めている作品を作り続けない駿」を非難しているだけであり、僕としては「作家・駿」を尊重したい。作家に夢をみるのは自由だが、夢を見られる方も見られる方でまたつらい。僕は駿を僕らの視線で縛って停滞させたくはない、と思うがそもそも駿にしてみればもはや世間の目を気にする時期はとうに過ぎていて、今はもうただ寿命を意識して「どんな作品を残せるか」に意識がシフトしているだろう。世間の目を気にして作品を作る時間など残されてはいない、いつどれが遺作になるかわからない、その覚悟でもって作品に望んでいるはずだ。今更過去を顧みてなどいられないしそんな興味もないだろう。そのような「人気を得る」類の欲求はとうに過ぎ去ったはずだ。勝手に好きに言ってくれ、状態である。


 駿が80年代にエンタメとして優れた作品を多く残してきたのは、高畑勲という名プロデューサーの存在も大きいが、また同時に「結果を残さなければならない」といった至上命題があったからでもある。特にナウシカラピュタでのプレッシャーは大きなものがあっただろう、外したらもう終わり、といった環境だったはずだ。今はもう、そういう時期は過ぎた。駿は仕事を失うこともなく、大コケしたって好きにやれるはずだし引退したっていいとも思っているだろう。会社の体力を気にして、興行収入を意識してのものづくりからはとっくに解放されているといってもよい。駿にしてみれば、「世間に勝手に期待されている」状態でしかなく、そんな状況を利用しているのが駿ともいえる。まあうまいこと好きに作れる環境を作れたな、といった具合である。駿が会社の為に身を削るなんてデキた人間のはずがないではないか。そういう駿をうまいこと操縦して商売するのが鈴木プロデューサーの役割である。


 僕は千と千尋が大好きで、あの作品の駿の脱力感がとても好きだ。肩の力が抜けきっている。もののけ姫でだいぶムリをして力の限りを尽くした分、千と千尋での「純百パーセント感」はすごいものがある。(伝わるだろうか)ああいった作品は神が作らせたといっても過言ではない。作ろうと思って作れる作品ではない。ただできてしまった、といった類の作品だ。完全に近い。神話である。
 今回の風立ちぬ千と千尋ほどの完全さはないが、それでも駿のピュアさに心震わされずにはいられない。結局のところ、ピュアなのだ。駿という人間が染みだしている。そして、僕の胸に染みいる。もちろん大衆を意識しないわけではない。けれど昔のようにそこまで大きな要素でもなくなっているのもまた真理だ。


 もののけ姫にピークを持ってきた駿の、今は余生だ。使命感などというものはなく、ただ作りたいから作る、といった境地に近い。そういう作品では万人を楽しませるエンタメ作家・駿を期待すると肩すかしをくらうがしかし、作品から人生観がにじみ出ていてとてもよい。それは駿汁とも呼ぶべきものだ。駿の世界への視線、その感じ方や捉え方、価値観や人生観、そういった諸々が僕らの心を包み込む。こう言うのもあれだが、これは絵画であり、あの草原でヒロインが描いていた油絵である。それはピュアであるからこそ、見る者の心を震わせる。染み渡る。


 詰まるところ僕は、駿という人間に感動させられたのだ。