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趣味の徒然うつらつら(2016年他ブログより移転)

ドラゴンクエスト4(PS版)感想

 今更ながらドラクエ4(PS版)をクリアしました。面白かったです。マーニャがよかったですね、薄い本を読んでみたくなりました。アリーナもいいんですが、それならばクリフト視点の寝取られとかが読んでみたいですね、ええ。
 
 ストーリーを簡潔に説明すると、村を滅ぼされた勇者が導かれし7人の盟友と合流し、人間を滅ぼそうとしている魔族の王ピサロを倒しにいくお話です。まあ色々と設定はあるのですが細かいところは省きます。(僕もよくわかっていない)


 にしてもドラクエって世界観の繋がりが「そそる」らしいのですよねぇ。僕は気にしたことがなかったのですが、確かにそこかしこに散らばったピースを嵌め合わせていくと壮大なクロニクルが浮かぶあってくるのです。各タイトルが微かに、けれど確実にリンクしあっているんですね。ロトシリーズ天空シリーズ、7からも何かしら繋がりがある様子ですが僕にはよくわかりません…。

 これって時代的な流行りなんですよね。年代記をファンに埋めさせることでのめりこませるという手法は大塚英志氏が物語消費論だかなんだかで書いていました。ビックリマンチョコを例に出して説明していたかと思いますが、ユーザーに情報の欠片を提示し、ヒントを提示していくことで歴史の概要を浮かび上がらせ、壮大なる年代記を作り上げ(させ)る手法があるのです。ガンダムも似たような手法を用いていますし、もしかしたらスターウォーズも似たようなところがあるのかもしれません。つまり神話の創造に参加させてしまうのですね。妄想を駆り立てるということで、ドラクエも同じ物語構築法を用いています。
 
 閑話休題、ストーリーの話に戻ります。ドラクエは1,2,3以外はプレイしていますが、ここまで人間味のある魔王は他にはいなかったのではないでしょうか。魔族の長ピサロは完全なる悪人とは言い難く、エルフの少女ロザリーを人間の魔の手から救ったりもしています。(後にこのロザリーが人間に殺されてしまうのを契機に完全に闇堕ちしてしまうのですが)シリーズ内での人気も高かったようで、このPSリメイクではなんと追加要素でピサロを仲間にできてしまいます。死んだロザリーも生き返り、ピサロに代わって魔王になろうとしていた黒幕の部下を一緒に倒しにいきます。(この魔族がロザリーを殺した)
これに関してはそこまでしていいんかい……と思わなくもなく、実際賛否両論あるようですが、こればっかりは販売戦略なので目をつむっておきましょうか。この間の8の3DS版にもゼシカEDが追加されていましたし、プレイ済みファンの食指を動かせるとっておきとして致し方ないのでしょう。

 
 しかしやっぱり僕はドラクエの戦闘が好きですねぇ、ええ。すごく頭を使ってる!感じがするのです。僕は生来の面倒くさがり故レベル上げはできるだけしないのですが、だからなのかボス戦は常に白熱します。ギリギリで倒せた時は自然とガッツポーズが出ますし、うまい戦術を取れたから勝てたのだとわかるので嬉しいです。ターン制のあの駆け引き、すばやさの高い人物をいかにうまく使うかとか誰になんの道具をもたせるかとか本当によくできているなぁと感心してしまいます。身も蓋もないことを言ってしまえばレベルを上げれば勝てるのは当たり前なので、他のRPGにしても「戦闘が面白い!」と感じたらなるべくレベルを上げないでストーリーを進めたいものです。


(ちなみに作戦「めいれいさせろ」はドラクエ5からの採用で、ファミコンの4までは仲間は完全AI戦闘だったようです。ドラクエ4コマ劇場でもクリフトはたしかにザキキャラだったが、なるほど、それはおバカAIに由来するものだったのですねぇ…。 ←とにかくザキを連発する)
 
 個人的に思ったのは、PS版の一番の追加要素は「仲間との会話」ではないでしょうか。これは7からの要素ですが、仲間と「話す」ことができるのです。場面場面で会話内容は変わるので、そのキャラの掘り下げに一役も二役も買っています。FC版では勇者たちの間でどんな会話が成り立っているのかわかりませんでしたが、少なくともPS版ではその一端を垣間見ることができます。僕はこのシステムでマーニャが好きになりました。マーニャのギャンブル好き+男好き設定はそそるものがありますね…ええ。この会話システムによって仲間のキャラが立ってより色濃くなったと思います。
 
 天下のドラクエですからど安定で万人におすすめできるゲームです。名作ですので、4未プレイの方はPS版かDS版をプレイされてみてはいかがでしょうか。
 
追記:ちなドラクエ豆知識
世界で見るとドラクエの知名度は高くなく、日本のRPGといえばファイナルファンタジーであってドラクエではありません。FFの人気はかなりのものがありますが、ドラクエは「何それおいしいの?」っていう感じです。(今は8と9が多少ヒットしたらしいので知っている人も多いでしょうが)
ドラクエ初期シリーズは欧米でドラゴンウォーリアーと改名して売り出されていて、販売は任天堂が担い、ローカライズ担当者は若かりし頃のかの故岩田社長だったとかなんとか。
ドラクエも世界でヒットして欲しいですねぇ。11に期待しましょう。11が世界的にヒットすれば10の世界展開に繋がるかもしれぬ。(ちと遅いか)

 

アルティメット ヒッツ ドラゴンクエストIV 導かれし者たち

アルティメット ヒッツ ドラゴンクエストIV 導かれし者たち

 

  ↑今やるならDS版のがいいかも。

交響組曲「ドラゴンクエストIV」導かれし者たち

交響組曲「ドラゴンクエストIV」導かれし者たち

 

  ↑ほすぃ

歌詞を書きました。

歌詞を書きました。誰か使って下さい。

 

ナイアガラ☆フォールズ ~よだれ~

 

いつからだろうこの気持ち あなたが胸に居着いてた

はち切れそうなこの胸に  やめてよムリムリ入らない

だけどどうして求めちゃう あなたの全てを求めちゃう

ジュルジュルジュパジュパんはんはあ 唾液をすする 我(われ)乙女

 

乙女はみんな気にしてる スイーツ片手に気にしてる

なのにやめてよ見せないで ポークビッツは甘い罠

どうしてなんでよ正気なの? ホントは全部 知ってるくせに

語り(でも、そんなお茶目なあなただから、わたし……)

 

あなたの口からナイアガラ☆フォールズ いつもわたしを狙ってる

わたしの口からナイアガラ☆フォールズ 夢をみさせてあなたの胸で

ふたりの口からナイアガラ☆フォールズ 見つめ合ったら滝も湧き出る

恋に落ちたらナイアガラ☆フォールズ そうよ世界三大瀑布(ばくふ)

 

(間奏~語り~)

「あーおなかへったー。え、あ、うわ紅茶にケーキ!うわわ!うわうわ!めっちゃうまそう!うーんでもやめとく、だって太っちゃうもん。え?太ったキミも綺麗だよって?……もうっ、バカッ!知らない!」(Wow!)

 

乙女はみんな夢をみる とろける甘い夢をみる

これ以上はしんじゃうよぉ だけど求めてナイアガラ

乙女はみんな知っている 自分が一番甘いこと

 

あなたの口からナイアガラ☆フォールズ いつもわたしを狙ってる

わたしの口からナイアガラ☆フォールズ 夢をみさせてあなたの胸で

蜜もしたたるナイアガラ☆フォールズ 下着も透けたわ好きにして

ふたりでむしゃぶるナイアガラ☆フォールズ だってほらもう脱いじゃった

 

神様どうもありがとう おいしいごちそうありがとう

ポークビッツも早変わり バイエルンに早変わり

いただきマンモスぱおんぱおーん いけないわたし とまらない

お口くちゅくちゅモンダミン 

あたしって ホントばか

 

あなたの口からナイアガラ☆フォールズ いつもわたしを狙ってる

わたしの口からナイアガラ☆フォールズ 夢をみさせてあなたの胸で

ふたりの口からナイアガラ☆フォールズ 見つめ合ったら滝も湧き出る

恋に落ちたらナイアガラ☆フォールズ そうよ世界三大瀑布(ばくふ)

RPG世界に於ける「魔物」の私的定義

少し前、僕はJRPG世界を下敷きとした小説を書きました。その時にふと疑問に思ったのが「果たして魔物ってなんだ?」ということでした。

その作品の主人公はいわゆる「魔王」と呼ばれる存在で、必然的にそこを突き詰めて考えざるおえなかったのです。

皆さんはこの「魔物」という存在をきちんと考えてみたことはありますか? 

その正体を、定義を一言で言い表すことはできますか?

僕にはできませんでした。魔物って獰猛な動物と何がちがうの? そんなレベルでした。

昨今いわゆる「なろう系」と呼ばれるファンタジー世界での冒険活劇を描いた作品が隆盛を極めています。もちろんそんな作品群の中でも魔物は描かれるわけで、僕らは当たり前のようにそれを享受しています。

 

でもじゃあ魔物って何?

 

考えました。考えて、一つの結論が出ました。

それは「魔物とは、異世界からの侵略者である」というものです。

 

魔物はこの世界のおける熊や虎や蠍などの獰猛な生物とはちがいます。魔物とは「魔の物」なのであり、つまり邪悪な存在であるわけです。どうして邪悪なのかというと、この世界を侵略しようとしているからです。

全然調べてないのでツッコまれると危ういのですが、かのイギリスの古典ファンタジー「指輪物語(ロードオブザリング)」でも冥王が存在し、世界征服を目論んでいるようです。その配下である魔物も主人公達に襲いかかるようです。世間一般でいうところの魔物の想像力の源はこのあたりの古典的ファンタジー群に依るのだろうとは思うのですが、これを日本で爆発的に広めたのはファミコンで発売されたドラゴンクエストです。

 

ドラクエもこういった勇者が敢然と悪(魔王)に立ち向かう図式を用いており、これによって日本で魔物という概念が普及しました。これは疑いようのない事実であり、ドラクエJRPG(Japanese Roll Playing Game)の始祖、その後のJRPGドラクエを下敷きとし発展してきたと言ってよいと思います。それくらいの影響力がありました。世界的には指輪物語でも、日本では圧倒的にドラクエなのです。ドラクエが僕らに魔物という想像力を植え付けました。

 

ドラクエはごくシンプルに「魔王から世界を救う勇者のお話」を描きます。シリーズ全てに同等の存在が登場します。ここでの魔王は「世界を征服せんとする者」として定義され、フィールドでエンカウントする魔物はもちろん「魔王の配下」です。つまり言い換えれば原住民VS侵略者の戦いなわけで、勇者は原住民代表として時に星の意志に導かれたり応援してもらったりしながら侵略者をやっつけていきます。(魔物は異次元からやってきたと思われる。魔物の語源は魔界からやってきた生物なのだろう)

 

で、話は戻るのですが、となればやはり彼らは獰猛な生物とはちがうわけです。何故なら人間と魔物は戦争のまっただ中、彼らは明確に人間を敵視しているからです。フィールドを歩いていると文字通り襲われるわけで、殺るか殺られるかの戦いとなるわけです。彼らは動植物のようにただこの世界で生きているわけではない、明確な侵略の意志を持って存在しています。

 

この大前提、一見すると当たり前のように思われるかもしれませんが、ところがどっこいけっこうみんな忘れてます。だってじゃあなんでファイナルファンタジーには魔物が存在するかと考えたことはありますか?

例えばFF7なんてラスボスはセフィロスという人間?ですが、フィールドにはゴブリンやらサボテンダーやら魔物がうじゃうじゃいます。でもセフィロスと魔物は関係がないわけです。となると魔物達が「侵略者」として定義されなくなり獰猛な生物と変わらなくなってしまいます。

ドラクエ以降、FF7に限らずこういう明確な魔王が存在しない、ラスボスの征服意図も曖昧というJRPGは多々あるはずです。(多くは世界を救うで一致するとは思いますが)でも僕たちは「魔物なんでいるの?」とは思いません。それはRPGのお約束であり「そういうもの」であるとわかっているからです。

 

あくまでも魔王が存在するからこそ魔物が存在する、少なくとも侵略の意図があるからこそ魔物は存在できる。

ではそういう世界観ではなく、この世界に元から存在する生物としてフィールドで出くわす彼らはどう定義されるのか。彼らはやはり獰猛な生き物と同等なのか?

いいえちがいます、彼らはそこでは「モンスター(怪物)」と呼ばれます

 

魔物とモンスターは厳密に言うとちがいます。魔物は魔の物でなくてはならず、モンスターはただ怪物であればいいのです。異形の者とも言えるかもしれません。ドラクエのような侵略者を倒すお話以外でフィールドで出くわす彼らは、モンスターであり魔物ではないのです。

 

おっとっとっとっちょっと待て、ドラクエでも「モンスター」という呼称は採用されているぞ。ドラゴンクエストモンスターズというゲームはどう説明するんだ?

 

はいその通りです。ですが同時に「まもの使い」という職業も存在します。ということは、ドラクエ世界の中では魔物=モンスターともいえることになります。

実際のところ、ドラクエ世界においては呼称など問題にはならず、どちらで呼んでも構わないでしょう。ですが僕が考えているのは「侵略者としてのモンスターか、原住民としてのモンスターか」ということでして、僕の定義によれば侵略者としてのモンスターに限り「魔物」と呼ばれるに値する、そういうことになります。

ドラクエはもちろん侵略者としてのモンスターなので魔物であると、そういうことになります。

 

お前はいったい何を言ってんねんと思われてそうですが、これは僕にとっては重い結論であり、この結論を導き出せなければとても魔王を主人公に据えた小説など描ききることはできませんでした。

 

転生物などJRPG的想像力を下敷きとした物語が隆盛を極める昨今、その敵対する者が「魔物」なのか「モンスター」なのか、そこから作品を読み解いてみるのもまた一興かもしれません。(最近では灰と幻想のグリムガルというアニメをこの視点から楽しみました)

魔物とモンスター、この分類を皆さんもぜひ意識して頂けたらと思います。(そうか?)

 

※ちなこちら言及した魔王が主役の自作です。→ 俺が魔王であるために。

 

文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)

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自分の人生を生きるということ。 / 堀江貴文『ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく』

堀江貴文という人は誤解されている。
それがこの本を読めばわかる。
 
多くの人は『ホリエモン』=『金の亡者』というイメージを持っていることと思う。
ライブドアの一連の騒動から、彼はとにかくお金が大好きで、お金を求めて行動してきた結果犯罪にまで手を染めてしまったのだと考えていると思う。(少なからず僕にもそんなところがあった)
けれどそうではなかった。彼は金の亡者なのではなく、働いてきた結果お金が付いてきただけの未来を夢見るロマンチストだった。お金は目的ではなく手段に過ぎないのである。
それがこの本を読めばわかる。
彼は『働かなければ生きていられない』類の人間である。彼はシンプルに「はたらこう」と訴える。働くことで自信を付けて、収入を得て自立し、己の人生を好きなように歩もうと。
実のところこれまでも一貫して訴えていることは同じだった。しかしかつてベストセラーとなった『稼ぐが勝ち』などに見られる、いわゆる煽り文句が先行してしまい彼の訴えたいメッセージが歪曲して伝わってしまっていた。(その結果多くの人が彼を金の亡者だと勘違いをしてしまった)
収監され彼は己を省みて、伝え方に問題があったのではないかと気が付く。
そして書かれたのがこの本だ。だからこの本は彼の一貫した哲学をより丁寧に、煽り抜きでごく自然体で訴えたものとなっている。
だからこそ堀江貴文という人に反感を抱いている人にも届きうる一冊となっている。
 
彼にとって働くとは「社会の中で自分には何ができるか」ということだ。決して傲慢にも『俺が社会の中心だ』と考えているわけではない。
そうではなく、彼はこれからの未来を読み取り、これからの社会(特に日本社会)には何が必要かということを見定めて邁進してきたのだった。しかしそれは既得権益勢には快くは映らない、それはそうである、彼の野心によりシステムが崩されてしまったら甘い蜜を啜ることができなくなってしまうからである。
そして虎の尾を踏んでしまった彼は収監されゼロとなった。
書籍はゼロ、まさしく彼のゼロ地点である幼少期から赤裸々に綴られていく。
 
福岡の田舎町に産まれた彼の生い立ち、親の不仲、学校での話、楽しみにしていた東京観光でふてくされた話、PCでプログラミングに没頭した日々等々、なんら僕らと変わらない彼の成長を見ることができる。(ただし、やはり地頭の問題というのはあって、彼は幼少期からずば抜けて勉強ができたようだが)
彼も繰り返し言っているように、彼と僕たちの間にはそう違いはない。たしかに彼は『天才』だと思うが(本人が否定しようとも)、彼の生き方それそのものならば僕らも参考にできるはずなのである。それは志の問題だからだ。
彼は家庭の不仲や地元への反発などもあり、とにかく『自分の力で好きなように生きていく』ことを念頭に置いて生きるようになる。これはごくごくシンプルな答えであり、自立と呼ばれるものだ。多くの人もそれはわかっている。
だが、ここに堀江氏の鋭い問いかけがグサリと刺さる。
 
『果たして君はきちんと自分の意志で働いているだろうか? 働かされてはいないだろうか?』と。
 
自分のやりたいことをやらずに、生活の為に働いてはいないだろうか?
みんながそうしているから、そうしないといけない感じだから、空気に流されてなんとなく働いていないだろうか?
もしそうなら、勇気を持って『自分の人生を』生きてみないか?
それは誰にでもできることなんだから、それが本当の自立なんじゃないのか、堀江氏はそう訴える。
 
つまりはあらゆるしがらみから己を解き放ち、やりたいことを必死にやっていればお金も周囲も付いてきてくれる、だからやってみようよと、シンプルにそういうことだ。
君たちに足りないものは能力でもなんでもなく勇気、一番足りないものは勇気なんだ。その上で能力が足りないと思うなら自分には何ができるかと試行錯誤し、人一倍がんばればいい。
ほんとうに単純に彼の訴えていることはこれだけなのだろうと思う。そして実際に彼はそうして道を切り開いてきた自負がある。
だからこそ書籍のタイトルにもなっている通り、『なにもない自分に小さなイチを足していく』のである。自分の人生を生きる為に日々がんばっていこう、その先にあなたの成功が待っている、ほんとうにただ単純にこれだけのことなのだ。

僕は天才ではないし、名家の生まれでもなく、イケメンなわけでもない、ただの地方出身者だ。あまり好きな言葉ではないが、努力だけでのし上がってきた人間である。そしていまもなお、ひたすらゼロの自分にイチを足して生きている。そんな僕にできるのだったら、あなたにもできる。僕は本気でそう思っている。

だがもちろん言うが易し、行うは難し、自分を信じ切れない時もあるだろう。そんな時はこの本に立ち返りたい。実際に自分を信じて己の道を邁進していく彼がいるのだから。再びゼロ地点に舞い戻った彼は再び小さなイチを積み重ねていく、ならば僕らにもできないはずはないのである。

 
最後に、この本を読んで特に印象的だったのが、彼が極度の寂しがり屋だということだ。彼は一人でいるのが嫌で、常に誰かと一緒にいたいらしい。これはとても意外だった。こう言ってはなんだが、一人でワインでも飲むのが好きというような印象を勝手に抱いていたからである。
また、死ぬことがとても恐いのだと語っていた。暇ができると死の恐怖に襲われてしまう、でも遮二無二なって働いていれば死の恐怖を忘れることができるのだと。
本を読む限り幼少期、彼はさみしかったのだろうと思う。それが今の彼の哲学に繋がっているのかな、と思った。働くことは彼にとって『人と繋がっていられる』ということでもあるのだろう。

 

もう一つ、ここのくだりがグサリと刺さった。

たとえば僕は決して裕福とは言えない家庭に生まれ育った。都会の、もっと裕福な家庭に生まれていれば、まったく違った人生が待っていたとは思う。しかし、僕は自分の境遇をマイナスだとは思っていない。なにかの機会が奪われたとか、人生をフイにしてしまったとは、思っていない。

なぜなら、チャンスだけは誰にでも平等に流れてくるものだからだ。

堀江氏は「チャンスに飛び付く力」のことを「ノリのよさ」と呼ぶ。

このノリの良さとは「フットワークの軽さ」「好奇心の強さ」「リスクを承知で飛び込んでいける小さな勇気」の総称だ。とにかく少しでも面白そうだと思ったらやってみる、そうしないとチャンスはすぐに過ぎ去ってしまう。自信がないとかなんとか言ってないで、とにかくやってみろと。

そうだよなぁ、僕にだってチャンスはあったはずで、だけど臆して掴み損ねてきたんだよなぁと、心当たる節もありとても身につまされた……。

 
ライブドア関連の一連の騒動には色々と意見はあると思う。だがそれでもって彼の生き方そのものが否定されるわけではない。実際に彼はごくごく普通の一般家庭の出身にも関わらずフジテレビ買収までを目論むくらいの成果を出したのである。言わずもがなそれは彼が彼の哲学に依って働いてきた結果である。
この書籍で語られるのは、そんな彼を支えてきた『生きる哲学』である。
金銭を稼ぐという成功ではなく、自分の人生を満足いくように生きられるといった成功、彼が訴えるのはそれだ。
ただし、自分の人生を生きる為にはお金が必要だから、がんばってお金を稼ごうね、その為に自分には何が出来るか考えようね、と。
 
誰もが自由に生きたいと願う、だが自由に生きることがどれだけ困難か僕らは身をもって知っている。
けれど実際にそれをやり続けて大きな結果を残してきた彼がいるのだから、勇気づけられる。
この本を読み一人の人間として堀江氏に好意を持ち、また憧れを持ち、ロールモデルの一人としたい人だと思った。

折に触れ読み返したい一冊である。

 

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 

 

稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方

稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方

 

 

ネットに上げてる創作物一覧

(随時更新、その他そのうち更新) 

声優と役者の違いとは、みたいな話。あとそれに絡めた自分語り。

作品至上主義でいくのならば、声優という存在を気にかけてはいかんのである。理想を言えば、声優は生涯一作品だけの出演にしてほすぃ。

— むなし (@a674) 2014, 9月 7

 少し前にこんなことをTwitterで言っていて、補足しつつ記事にしてみようと思ったのでしてみます。

 まずこの発言には自分で「ならば顔を出して演技をする役者はどうなのか?」というツッコミをしなければなりません。声優には生涯一作品だけの出演を希望している、では役者に対してはどうなのか?
 実は僕は役者に対してはそんな願望は持っていません。それは各々のキャラに対しての『役割』が違うと思えるからです。
 この違いを述べていきます。

 最初に結論を言うならば、それはキャラへの役割が『裏』と『表』になるという一言に集約されます。つまり、声優はあくまでもキャラに声を付ける『黒子』であるのに対し、役者は自分を殺さずに出した上でキャラを憑依させる『生身の人間』であるということです。キャラへの主従関係が異なります。
 
 掘り下げてみましょう。まず声優も役者も台本がありキャラがいてその『キャラ(人物)になる』という行為自体は同じです。けれどもその性質がちがって、声優にはあくまでも『台本そのままにキャラを顕現』させることが求められるのに対し、顔を出して演技をする役者の場合は『役者にキャラを憑依させる』ことが求められます。うーん、腹話術師といたこで想像してみてください。もちろん腹話術師が声優で霊を呼び起こすいたこが役者です。

 お前はいったい何を言っているんだ、という声が聞こえてきそうなので具体例をあげますが、例えば役者の場合には、まず役者ありきの台本作りということがありえます。キャスティングありきで物語が作られる、これはアニメにはほとんどありえないことではないでしょうか?
 情熱大陸か何かで見たのですが、舞台監督の三谷幸喜がまず役者を想定して脚本を練っていました。この役者にこういうことをやらせたら面白そうだ、この役者ならキャラはこうした方がよさそうだ、ということから作品を作り上げていく手法です。別にこれは三谷幸喜だからこう、というわけではなく、考えてもみて欲しいのですが、役者の場合は『役者を観に行く』ということがおうおうにしてありえます。役者という生身の人間そのものが作品を形成する一つの要素どころか重要な売りになるわけです。そしてここが重要なのですが、役者は演技をする際に、『自分らしさ』を少なからず求められることになります。その人でなければいけない魅力、生身の人としての魅力が求められます。かつては松田優作や今では浅野忠信など、『どんな役を演じてももはやその人にしかならない』といったスターが存在するわけで、これは声優業では御法度とされることです。何故なら声優の役割は腹話術師、黒子だからです。生身の存在を感じさせてはいけません。

 声優業ではキャラに対して主従関係で従になるのに対し、役者業では主になると考えてください。だからこそまず声優をキャスティングして台本を起こすということがありえない、これは予算や売上の問題とはまた異なる根本的な性質の話です。台本、つまりキャラのイメージの再現に全力を注ぐのが声優の仕事であり、その時に生身の体は邪魔にしかなりません。それを感じさせては作品世界への没入の妨げになってしまうからです。ですが、役者ではその『役者がキャラを演じている』ことが前提となる為、そうなってもいい、そういうものなのだと私たちは了解しています。だから気にせず楽しむことができるし、その人間としての味付けこそが魅力にもなりえる。反して、声優はやはり『キャラありき』で生身の自分は殺さなければなりません、それが元々の声優の役割なのですから。

 こう言うと『声優それぞれに個性だってあるじゃないか、その声優が出ているからそのアニメを観ることだってあるぞ』という声が聞こえてきそうですが、もちろんそれはその通りで、声質だったり演技の癖だったり、ひとりひとりに個性というものは存在するでしょうし、役者と同じようにその声優が出ているからそのアニメを観るということもありえるでしょう。
 ただ、ここで考えたいのは根本的な性質はどのようなものなのか、という理念の話です。僕の主張では、その性質の差異を最大限拡大して考えると、生身の人間としての個性を味付けできるのが役者であり、声優は自分を押し殺してキャラを読み取りなりきらなければならない、となります。これは間違ってはいないと思いますが、いかがでしょうか。声質や癖が個性とはなっても、その人そのものの存在を味付けにしてはいけない、理念としては、です。

 僕は好きなアニメ作品ができるといつも裏事情を知ることを躊躇ってしまいます。その世界の裏側を知れば世界が薄まっていくのはあたりまえで、キャラを清潔に、純度百パーセントに保つ為には余計なことは知ってはならないと考えてしまいます。その最たるものが声優です。ましてや今はアイドル声優などという言葉がある時代、キャラを見て声優の顔を思い浮かべてしまうことがどれだけキャラの純度を薄めてしまうか、その恐れがいつも僕の中にはあります。
 キャラを大切にしたい、それならば声優を意識してはならない、その思いが冒頭のツイートということになります。

 ということで、【作品至上主義でいくのならば、声優という存在を気にかけてはいかんのである。理想を言えば、声優は生涯一作品だけの出演にしてほすぃ。】となるのでした。作品世界を第一に考えるならばこれが理想型だからです。もちろん、現実にはこんなことは不可能ですが…。


 最後に、少し上記に思い至るようになった僕の苦い経験をお話させていただきます。こういう経験を経て僕は述べてきたような危惧を抱くようになりました。 
 
 高校一年生の時、僕はメモリーズオフというギャルゲ-に出逢い、ちょっと頭がおかしくなるくらいにどハマリしました。あ、初代です。それでその中に桧月彩花という幼馴染みがいて、この作品はその子なしには語れないという子なのですが、そのキャラが頭に住み着いて離れなくなってしまったんです。寝ても覚めても考えてしまって、ぼんやりしてしまって、作中のことはもとより街中でふと(ああ、こんなところには彩花がいそうだな)とか探してしまったりまでして、なんというか、本当に心奪われてしまっていたんです。しあわせなことですね。そのキャラに声をあてていたのが声優の山本麻里安さんでした。
 僕は山本麻里安さんのラジオを聞き始め、CDを聴き、サイン会にまで行きました。すぐに山本麻里安さんのことも大好きになりました。その結果どうなったか、彩花は、僕からどんどん離れていってしまいました……。
 いつのまにか、僕は彩花を彩花として見ることができなくなっていたんです。彩花の後ろに山本麻里安さんを見るようになってしまった、どころかもう声が山本麻里安さんにしか聞こえなくなってしまったんです。悲劇でした。悲しかった。まさか、と思いました。大切にしたかった、宝物だったのに、その世界を自分の手で壊してしまった……もう僕は以前のように彩花に触れることができなくなってしまった、声優という存在を知ってしまったことで。

 別に「好き」、くらいの作品だったら別にいいんです。ただ、僕にとってメモオフはそんなんじゃなかった。衝撃、人生で一番だったんです、いや、ほんとに。その世界が遠ざかっていってしまったその悔しさ、トラウマですよ。見事に。
 ここに「いや、山本麻里安さんの演技がちょっとアレだったからで、訓練された声優さんなら気にならないって…」みたいな慰めを自分で自分にできはするんですが(麻里安さんに失礼)、それでもやっぱり今でも好きを越えた作品の声優さんには他の作品で会いたくないし情報を仕入れることも躊躇ってしまいます。特に、顔を見たくない。
 今で言えば僕はアイカツ!にハマっていますが、どハマリしていますが、やっぱり身勝手に「声優さんはアイカツ!だけに出演してくれ!」と願っています。他の作品で出会いたくない…アイカツ!キャラの声を他の作品で聞きたくない。アイカツ!世界の強度を、純度を保ちたい。

 どうしても声優という存在を意識するとキャラの存在が薄まっていきます。これは僕にはどうしようもないことなんです。気にされない方はされないのかもしれません。僕が神経質なだけなのかもしれません。ですが、そこに意味を見出すならば、やはり僕は作品世界至上主義ということになるのでしょう。

 でも、作品にハマればもちろん声優さんにも興味が出てきますよね…オタクですからね、僕だって……ジレンマはあるんです、いつも。できれば、追いかけたりしたいなぁ、なんて。

 ここまで言っておいてアイカツ!声優を追いかけている未来もあるかもしれませんが、それはそれ、その時は僕が何かに負けたのだと思って生温かい目で見逃してやってください。

 

Memories Off History

Memories Off History

 

 

思い出のマーニー、雑感。

 熱が冷めないうちに雑感を書きます。

 正しく「子供の為の映画」でした。元はイギリスの児童文学とのことですが、さもありなん、たしかに正しく子供の成長を促す物語でした。
 僕はこの作品が大好きです。観る前から予感はありましたが、見事に寄り添ってくれる作品になりました。ありがとうございますと、一言制作陣にお伝えしたいです。
 愚にも付かない雑感であって感想にもなっていないと思いますが、少し思ったこと、感じたことを描いてみます。

 まず、正しく子供の為の映画とはどういうことかというと、この映画が描いているのは『世界に居場所がないと感じる子供が、愛を感じ、育み、愛し愛されることで居場所を得る物語』だということです。世界名作劇場よろしく、児童文学とはえてしてさみしい子供たちが愛を得る物語として機能します。だから身寄りのない設定の物が多い。(そして僕はそれが大好物です)
 
 この作品が描いたものを一言で言い表すならば、『あなたは愛されている』ということであり、それは『あなたのことが大好き』というキャッチコピーからも読み取れます。物語冒頭、主人公の杏奈の状況が『絵を描く』『喘息』『輪の内側と外側』というキーワードと共に描かれるわけですが、つまり彼女は孤独なわけです。寄る辺のなさを感じています。実際に彼女は天涯孤独でおばさんに引き取られた女の子で、その心に深い傷を負っています。

「わざと死んだんじゃないってわかってる。だけどわたしは許せない。わたしを残していって許せない」

 と家族について作中マーニーに語る杏奈ですが、彼女はまるで捨て子のように自分を語ります。自分を愛してくれる人なんてこの世にはいないんだ、まるで呪いのようにそう感じています。
 なぜ彼女は喘息なのでしょうか? 彼女は学校でも暗くあまり友達がいないようです。よく倒れてしまうようで、友達が鞄を家まで届けてくれました。彼女は喘息だから暗いのでしょうか?友達がいないのでしょうか? そうではなく、彼女の心が喘息という病気を生んでしまったのです。

 物語的には喘息と彼女の心の動きは連動しています。杏奈は日常に息苦しさを感じているからこそ実際に咳き込んでしまう病気になってしまいました。現実はともかく、物語的にはこう考えるのが自然です。
 自分は輪の中にいないと語る杏奈、輪とはみんなの輪、社会、世間のことです。自分はふつうではない、なぜふつうではないのか、それは捨て子だからです。自分は捨てられたと感じて遠慮であったりとにかく
『みんなと自分はちがうんだ。わたしはあの子たちみたいにはなれないんだ』
 と感じています。だからそんな中にいると息苦しくてどうしようもなくなって喘息という発作が起こってしまいます。だから、映画の後、マーニーと出逢った後の彼女の喘息は快方に向かうでしょうね。物語的にはそういう風に読み取れます。

(余談ですが、『俺たちに翼はない』というノベルゲームの主人公も同じように家族を亡くし孤独を抱えている存在なのですが、彼もまた輪の外にいる存在としてよく咳き込みます。そして咳き込んだ後は空想の世界にトリップしてしまいます)

 さみしさを抱えた杏奈が惹かれた存在、それがマーニーです。なぜマーニーなら大丈夫だったのでしょうか? それはマーニーが輪の外側にいる存在だからです。彼女は俗世に染まっていない、だから杏奈は警戒しなかったし、友達になれた。マーニーはお婆ちゃんだったわけですから、ここになつかしさや絆を読み取ることもできるとは思います。ですが根本的にはこういう理由だと思っています。といいますか、マーニーに惹かれたことに理由などいるでしょうか?僕が杏奈でも、間違いなくマーニーを追いかけたと思います。それが子供というものでしょう。杏奈はマーニーがどうしても気になって気になって仕方がなかったのです。それは彼女にしか見ることができないファンタジーだったからです。
 
 マーニーという少女は何者だったのでしょうか。もちろん物語的な解は出ています。杏奈のおばあちゃんでした。しかし、敷衍して考えれば、誰もがマーニーに出逢っていたと考えるのが自然だと思います。あなたの傍にもマーニーはいたのです、これがこの映画のメッセージでしょう。だからこその『あなたのことがだいすき。』です。物語的にはマーニーはマーニーという形を取っていますが、それは違う形であなたの傍にもきっといたはずですよ、と。

(なのでこの辺りには多少違和感を感じました。祖母にする必要はあったのか?と。そうすると杏奈のお話になってしまうからです。杏奈が特別でマーニーと出逢うことができたのだと読み取れてしまいます。実際のメッセージはそうではなく、『誰もがマーニーに出逢える』です。ただ、物語的にはわかりやすい決着が必要だったのかもしれませんね)

 マーニーはそこにいたのでしょうか?彼女は杏奈が作り出した存在に過ぎないのでしょうか?
 そんなことはないと思います。マーニーはたしかにそこにいました。物語としては『杏奈の空想』寄りに描かれていました。ですがもちろんそんなことはありません。間違いなく杏奈とマーニーは出逢っていて、あの時あの場所で過去と現在は繋がっていました。
 舞台は北海道の湿地帯、入り江です。まずこの入り江という舞台を考えると、彼岸というべきか、あの舟で漕いで行ったり来たりするというのは、『あの世とこの世、そして現在と過去を往来する』という象徴的な意味合いが読み取れます。一日のうち一時だけ、月の力がもたらす潮の満ち引きと連動して時空が繋がる場所、それがあの入り江でした。だからマーニーはその時間にしか表れることができないし、入り江の傍から離れることができません。
(何度も言いますがこれは杏奈にだけ起きることではありません。あの入り江は杏奈の場所かもしれませんが、こういう場所は誰もが持っていたものとして描かれるべきものなはずです)

 このあたり村上春樹がよく使う手法で、彼の作品ではよく現実と非現実が繋がるのですが、それは井戸の底であったり水辺の向こうであったり霧の向こうであったりします。その先で死人に出逢ったり、何か摩訶不思議な世界に繋がっていたりというリアリティを好んで用います。この『虚実の境』として入り江は機能しています。あれは、あのお屋敷は幻であるけれども限りなく現実なのです。夢ともうつつともつかない空間、それが現出されます。

 どうしてそんなことになったのでしょうか?物語的にはマーニーが杏奈を心配していたから、と読み取ることができます。祖母として、マーニーはどうにかして杏奈を救ってあげたかった。だからその願いが、愛があの空間を作り上げた。それが自然な読み取り方となるでしょうか。
 ただ、このあたり正直なところ好きなように受け取っていいと思っています。ここに意味を見出す作品ではないからです。この作品のリアリティは、読み取って腑に落とすものではなく、感じて腑に落ちるものです。作品に入り込めればこのあたりの理由付けが気になることなどないと思います。僕はまるで気になりませんし、それでも十分に納得しています。何か不思議なことが起きて、マーニーと出逢って、杏奈は救われたんだ、この説明だけで僕には十分です。前述した村上春樹作品だって同じ様なことで、そこに確固とした理由などないし、求められるものでもないのです。こういったリアリズムの前では理由はさほど意味を持ちません。感じ取るか、取れないか、それが全てではないでしょうか。(もちろん感じ取れずとも楽しめるとは思います)
 
 ただ一点言うなれば、僕としてはやっぱりマーニーも過去に杏奈と出逢っていた、あのマーニーの日記の中には杏奈の記載もあるべきだった、そうは考えています。どうも原作では実際に日記の中に杏奈の関する記述があったようです。(要確認)それはそうで、だってマーニーだって子供のとき、杏奈と同じ様に『さみしくて、世界に居場所がないと感じていた少女』なのですから、マーニーだってイマジナリーフレンドを必要としていたはずなのです。だから、杏奈にとってのマーニーがそうであるように、マーニーとっての杏奈もそうであったと読み取るのが自然だと思います。時空を越えて出逢った二人だったと、そう読み取れます。 

 イマジナリーフレンドとは言いましたが、何度も言いますが僕は『実際にそこにいた』というスタンスを取っています。ただ、こういった『空想の友達』系譜のお話自体はさほど珍しくはなく、かなり古典的であるともいえます。
 例えば少女小説のクラシック【赤毛のアン】では、アンは幼少時にさみしさを紛らわす為に鏡に映る自分にケティ・モーリスという名前を付けて架空の友達をして自分を慰めていました。あるいは僕の好きな漫画【魔方陣グルグル】という作品では、ヒロインの魔法使いの女の子がこれまたさみしい自分を慰める為に魔法でともだちを作り上げてしまう(召喚してしまう?)といったものもありました。たしか。ここでいう架空の友達とは、架空ではあるもののぼくらを見守ってくれる守護霊みたいなもので、妖精みたいなもので、ぼくらを庇護してくれる存在としての役割を担っています。アンだってそういう存在を求めていました。

(前述した『俺たちに翼はない』というノベルゲーでも、ヒロインの一人である明日香という少女が昔空想の弟を持っていたという設定がありました。とかく孤独を抱えたこどもたちはイマジナリーフレンドを持ちやすい。それは発達の一つの段階であるといえると思います)

 この作品、間口はおそらく狭いです。というのも、一般論で言えば、冒頭で杏奈に共感できなければその後の流れに乗るのは難しいからです。(これは娯楽作品としてという意味です。文芸的に見る目を持てば好き嫌いはあるにしても優れたお話だと感じてもらえる、のではないでしょうか…)
 僕はもちろん掴みはオッケーな感じだったのでその後は流れに乗るだけで、とても大切なお話になりました。杏奈の屈折した心も、悩みも、とても共感することができました。

(そしてこの作品の一番の困難はジブリという看板にあります。ジブリ宮崎駿なわけで、この作品はそういう期待の元に観ると肩すかしを食らってしまいます。そして不当に評価を低く見積もられてしまいます。しかし宮崎駿宮崎駿であって、米林監督は米林監督です。もしかしたら多くの人はディズニーのようにジブリを捉えているのかもしれませんが、ジブリとディズニーは別物です。ディズニー映画では監督の匂いを感じることはほぼないはずですが、ジブリは良く悪くも監督ありきのものづくりです。会社として映画をコントロールしているわけではありません。一人の作家性を尊重したものづくりの極北がジブリです。ジブリ=駿のイメージの元で観られてしまう困難、これはとてつもないものであるはずです。そんな中でこんなに丁寧に、自分を見失わずにできることをできる範囲でやってきた米林監督に、僕は賛辞を惜しみません。)


 閑話休題、この映画、情熱大陸鈴木敏夫さんが「女性に向けた映画」と言っていました。その言葉通り、おそらく男性受けは芳しくないでしょう。永遠の友情を誓う、というのはとても少女的であり、やはり赤毛のアンでもそういうシーンがありました。ましてや杏奈はヒーローになりたいわけでも刺激的な日々を求めているわけでもありません。彼女はただふつうに、みんなと同じ様になりたいと願っていただけです。だから少年の冒険心からすると少し退屈に映るかもしれませんね。かぐや姫の物語を楽しめた人は楽しめるでしょうか。

 僕は杏奈に共感できた、と前述しましたが、僕がいいなと思ったのは、この作品では杏奈の視線で見ることも大人の視線で見ることもできることです。つまり複眼的に映画を観ることができるんです。子である杏奈、親である叔母、どちらの心情も痛いほどわかります。加えて出てくる人物みんなちゃんと生活していると感じることができました。なのである程度年を経た方が心に痛みを感じられるかもしれません。(赤毛のアンも大人の女性の方が楽しめるお話です、実は)
 人が、生きているんですね。あの世界にはモブはいません。そう感じられました。こう言ってはなんですが永遠の少年である宮崎駿にはこれは描き得ない世界です。彼の描く作品ではモブがモブになってしまいます。主人公達は同じステージにいないんですね、周囲と。ふつうに生きる人々を描く第一人者は高畑勲ですが、米林監督もどちらかというと勲寄りの、ヒューマンドラマ寄りの監督のようです。そういえばかぐや姫もふつうになりたいと願っていましたっけ。


 誰にとっても永遠の友達、忘れてしまったかもしれないけどあなたに寄り添ってくれていた存在、それがマーニーです。マーニーは杏奈にとっての永遠の存在ですが、あなたにもそういう人、存在はいたはずです。そしてこどもたちに、そういった『あなたは護られている、一人じゃないんだよ』と伝えてあげているのがこの作品です。こどもたちはもしかしたら退屈と感じたかもしれません。よくわからなかったかもしれません。ですがふと大人になったときに思いだしてくれたら、そのときこそ「自分だけのマーニー」の存在に気がつけるのではないでしょうか。

 正しく、とても正しく子どもたちに向けた映画でした。そして大人にも忘れてしまったマーニーを思い出させてくれる映画でした。

「あなたのことが大好き」
「わたしもあなたのことが好き!」

 一人じゃなかった。自分は一人ではない。もしかしたらそうは感じられないかもしれない。でも必ず、あなたの傍にもマーニーはいたんだよ。
 ああ、いい、いいわこれ……。 

 この世界に居場所がない、ひとりぼっちだ、そう感じている人にはぜひ観てもらいたいです。
 きっと長いあいだ寄り添ってくれるお話になります。そして子どもたちもきっとこれを観たことが財産になる、そんなすばらしい映画でした。

 

 

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)